北中郎将と五校と虎賁・羽林

id:chincho氏のhttp://d.hatena.ne.jp/chincho/20110616/1308228283を読んで思ったこと。


なんで、「中郎将」と称しながら郎を率いないのか。

郎って当時のエリート近衛兵じゃないの?
虎賁、羽林とかさ。
この辺の近衛兵を率いていけばいいんじゃないの?



初開西邸賣官、自關内侯・虎賁・羽林、入錢各有差。私令左右賣公卿、公千萬、卿五百萬。
(『後漢書』本紀巻八、孝霊帝紀、光和元年)


ああそうか、霊帝の頃、売官によって虎賁、羽林といった従来のエリート近衛兵に買官経由で就任した「なんちゃって近衛兵」が増えていたんだ。きっと。
ぶっちゃけ質が一気に低下したんじゃないだろうか。


だから中央軍を黄巾討伐に派遣するにも、実質五校しかなかったんだろう。

しかし皇帝おひざ元のエリート部隊長がやってきた、という体は維持したい。
そこで新規の「中郎将」を設立したのだろう。



引用元にある盧植が率いるのは烏桓中郎将、そして越騎校尉、長水校尉といった四夷の騎兵。
もうエリア88のような外人部隊頼りである。


まともな兵力は外人部隊の方で、従来のエリートたる郎は使い物にならないという状況が出現していたのだ。



そして、この時点で「うわっ・・・私の近衛兵、弱すぎ・・・?」と霊帝が感じたことが、いわゆる西園八校尉設置の理由だったのかもしれない。

売買官等による虎賁、羽林の質の低下と外人部隊への依存体質。
これらから脱却するためには、新規に皇帝直轄の部隊を作るしかなかったのではないか。