三国志はじめての官職:中郎将

たとえば諸葛亮、彼が劉備より最初に与えられた官職は「軍師中郎将」といった。



「中郎将」とはいったいどういう官職なのだろうか。




五官中郎將一人、比二千石。
本注曰、主五官郎。
五官中郎、比六百石。
本注曰、無員。
五官侍郎、比四百石。
本注曰、無員。
五官郎中、比三百石。
本注曰、無員。
凡郎官皆主更直執戟、宿衛諸殿門、出充車騎。唯議郎不在直中。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)

左中郎將、比二千石。
本注曰、主左署郎。
中郎、比六百石。
侍郎、比四百石。
郎中、比三百石。
本注曰、皆無員。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)

右中郎將、比二千石。
本注曰、主右署郎。
中郎、比六百石。
侍郎、比四百石。
郎中、比三百石。
本注曰、皆無員。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)


中郎将」というのは、皇帝が政務を行う宮殿を守る衛兵である「郎官」を率いる指揮官である。


五官中郎将」「左中郎将」「右中郎将」の三部隊に分かれている。




「郎官」は「中郎」「侍郎」「郎中」という等級があり、交代で宮殿に当直して宮殿の門を守り、もし出征することになれば戦車(言うまでもないがガルパン的な意味ではなくポルナレフ的な意味である)兵や騎兵になった。


つまり皇帝直属のエリート兵士である。



この皇帝直属の軍団が出征するとしたら、地方の軍では手に負えないような大乱と思っていいだろう。





もっとも、後漢末などには各地の軍閥、独立勢力などが「軍師中郎将」といったオリジナルの名前を冠した「中郎将」を作っており、将軍の下位互換であるかのように用いていたようである。



それは、おそらくは中郎将と郎官の皇帝直属という性質に着目して箔を付けようとしたというところなのではなかろうか。




虎賁中郎將、比二千石。
本注曰、主虎賁宿衛。
左右僕射・左右陛長各一人、比六百石。
本注曰、僕射、主虎賁郎習射。陛長、主直虎賁、朝會在殿中。
虎賁中郎、比六百石。
虎賁侍郎、比四百石。
虎賁郎中、比三百石。
節從虎賁、比二百石。
本注曰、皆無員。掌宿衛侍從。自節從虎賁久者轉遷、才能差高至中郎。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)

また、「郎官」には他にも「虎賁」という部隊もあった。


こちらは、「侍従」と書かれているように、どうやら皇帝の身辺警護を行っていたようだ(前述の「郎官」は宮殿の門の衛兵なので、より皇帝に近いのである)。



なお、「虎賁」の郎官については世襲制で、死んだら息子が跡を継いでまた虎賁になる、ということになっていたらしい。



羽林中郎將、比二千石。
本注曰、主羽林郎。
羽林郎、比三百石。
本注曰、無員。掌宿衛侍從。常選漢陽・隴西・安定・北地・上郡・西河凡六郡良家補。本武帝以便馬從獵、還宿殿陛巖下室中、故號巖郎。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)

また更に、「羽林」という部隊もあった。



こちらは、騎馬に長けた者の多い辺境の郡から選抜されることからもわかるように、皇帝に付き從うエリート騎兵隊であった。



なおこの「羽林」も戦死者の子がみなしごとなった場合に養育して「羽林」としたり、父が死んだら息子に跡を継がせたりといった世襲制を取り入れていたようだ。



最初から皇帝の騎兵として最適化されるように孤児を養育したのだろう。




ただし、これらの皇帝侍従の郎官たちは後漢末の霊帝が行った売官制度の売買対象になっていたので、それ以降の時代では質が落ちていた可能性はあるかもしれない。





とにかく、これらの「郎官」とは皇帝の衛兵、インペリアルガードであり、そこから高級官僚へと出世してゆくケースも珍しくなかった、ということは憶えておいても良いのではないだろうか。