『漢書』韋玄成伝その4

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110610/1307632176の続き。

於是上重其事、依違者一年、乃下詔曰「蓋聞王者祖有功而宗有徳、尊尊之大義也。存親廟四、親親之至恩也。高皇帝為天下誅暴除亂、受命而帝、功莫大焉。孝文皇帝國為代王、諸呂作亂、海内搖動、然羣臣黎庶靡不壹意、北面而歸心、猶謙辭固讓而後即位、削亂秦之迹、興三代之風、是以百姓晏然、咸獲嘉福、徳莫盛焉。高皇帝為漢太祖、孝文皇帝為太宗、世世承祀、傳之無窮、朕甚樂之。孝宣皇帝為孝昭皇帝後、於義壹體。孝景皇帝廟及皇考廟皆親盡、其正禮儀。」玄成等奏曰「祖宗之廟世世不毀、繼祖以下、五廟而迭毀。今高皇帝為太祖、孝文皇帝為太宗、孝景皇帝為昭、孝武皇帝為穆、孝昭皇帝與孝宣皇帝俱為昭。皇考廟親未盡。太上・孝惠廟皆親盡、宜毀。太上廟主宜瘞園、孝惠皇帝為穆、主遷於太祖廟、寢園皆無復修。」奏可。

そこで元帝はこのことを難しいと思い、一年間決定できずにいたが、やっと詔を下した。
「聞いたところでは王者の祖は功績があり、宗は徳があったというのは、尊ぶべき者を尊ぶという大義である。祖先の廟4つを残すのは、親しむべき者を親しむという恩の極みである。高祖は天下を統一して天命を受け、これ以上ない功績があった。文帝は呂氏が乱を起こし天下が動揺していた時に群臣も民も心を寄せたが、それでもなお謙譲して即位を固辞し、即位後も秦代から残る制度を廃止し古代の遺風を興し、天下は安泰であって、これ以上ないほどに盛んな徳があった。高祖を漢の太祖、文帝を太宗とし、永遠に祭祀を続けることとする。私もそれはとっても嬉しいなって。宣帝は昭帝の後継であるが、廟の理論上は同じ「昭」で一体である。景帝と皇考の廟は既に残すべき限度を過ぎているので、制度、儀礼を改正するように」

韋玄成らは上奏した。
祖・宗の廟は代々祭祀して永遠に廃止しないようにし、祖を継いだ者以下は5廟で廃止していくようにします。高祖は太祖、文帝は太宗、景帝は昭、武帝は穆、昭帝と宣帝は共に昭とします。皇考廟の期限はまだ来ていません。太上皇、恵帝廟は既に期限がきているので廃止すべきです。太上廟の位牌は陵墓内に埋めます。恵帝は穆であるので、位牌は太祖廟の中に収め、陵墓や正殿は維持しないようにします」

その上奏は裁可された。


廟制について大臣たちの意見が分かれるのを見て「えっ・・・私の大臣、意見分かれすぎ・・・?」と若干引いてしまった元帝だが、長考一年にして一定の結論を出した。

「高祖を太祖、文帝を太宗の廟にしてこれは廃止しない。景帝廟は廃止。あと皇考廟も廃止。細かいことはお前ら考えて」


しかし韋玄成らは元帝の言った通りにしていない。

「太祖、太宗+5廟を残すことにしましょう。だから景帝廟以降を遺します。皇考廟はまだ廃止対象じゃないっすよ?」



おそらく、最初の元帝の詔が想定するのは
○高祖(太祖)
○文帝(太宗)
武帝
2昭帝
3宣帝
だけを残すものだと思われる。
4廟のはずが3人しか残らないが、もしかすると世代的には武帝から宣帝まで4代ある(宣帝の父世代が欠けている)からかもしれない。皇考廟がそこに入りうるのだが、皇帝になっていないからパスしようとしたのではなかろうか。


一方、韋玄成らの上奏では
○高祖(太祖)
○文帝(太宗)
1景帝
武帝
3昭帝
4皇考
5宣帝
となり、祖・宗以外は5廟となる。
漢代は全て5廟とするつもりなのかよくわからないが、もしかすると「天子七廟」に合わせようとして「太祖+太宗+5廟」にアレンジしたのかもしれない。
廃止されるのは太上皇廟と恵帝廟だけとなり、元帝の詔よりかなりマイルドになっている。

廃止後の措置が太上皇廟と恵帝廟で違っているのは、太上皇は太祖の父なのに対し、恵帝は息子であるからだろう。廟制の基礎には太祖廟があるから、太祖より上世代は特別扱いするしかなかったのかもしれない。
廟廃止後は廟内の「位牌*1」を太祖廟内に安置するのが制度だったらしいので、父の位牌も安置するのは変じゃね?ってことなのではないだろうか。

*1:敢えてこう言っておく。