南中郎将と五官中郎将

(建安)二十四年、曹仁為關羽所圍。太祖以(曹)植為南中郎將、行征虜將軍。欲遣救仁、呼有所勅戒。植醉不能受命、於是悔而罷之。
(『三国志』巻十九、陳思王植伝)

曹操の子の曹丕曹植は激しい後継者争いを繰り広げ、建安二十二年に曹丕が勝利して魏王曹操の太子になった。


曹植はその二年後、荊州関羽に包囲された曹仁を救うための将として派遣されることとなり、「南中郎将、行征虜将軍」に任命された。


思えば、曹丕の就任した官は「五官中郎将」。
曹植はその時の曹丕の官に並んだということになる。

無論、父である丞相曹操の副とされた曹丕とは立場は大きく違うが、曹植曹丕と似たような官に就けたのは何か意味があったのだろうか。




曹仁救出の任務といえば、当時の曹操にとっては最大の懸案事項である。
なにしろ、曹仁のいる襄陽が抜かれると皇帝のいる許や都洛陽も危なくなるのだから。
彼が総大将なのかそれとも一将としての同行だったのか分からないが、とにかくただのお飾りを連れて行く余裕のある戦とも思えない。

曹植はそれなりに能力を見込まれ、同時に任務達成の厳しいノルマを課せられて南中郎将に任命されたのだろう。


そして、もし仮に曹植が任務を達成し、関羽を退けて凱旋してきたらどうなったか。
長年の副丞相としての功績と最年長というアドバンテージはあるものの、軍事的功績には欠けていると言わざるを得ない曹丕に対し、曹植はある面で優位に立つことになるだろう。
まだ劉備孫権・公孫氏が残る当時、トップに立つ者には軍事的能力も要求されると言っていいだろうから。

一旦は立太子によって鎮火したはずの後継者問題は再燃することになるのではなかろうか。



曹操はその危険を認識していなかったのか。
それともそういったことは全く起こり得ないと言える状況だっただろうか*1

あるいは、曹操が積極的だったか臣下からの強い要望などからやらざるを得なかったのかはともかく、曹植にもチャンスを与え続ける必要のある状況だったのかもしれない。



袁紹は後継者を確定せずに息子たちを各州に置き、結果袁紹死後に仲間割れで滅んだ。

曹操は後継者を定めてはいたものの、次男・三男を南北に派遣し軍功を立てるチャンスをタップリ与えようとした。


曹操が後継者問題において取った措置は、袁紹を笑えるほど上手なものだったのだろうか?


*1:しかし現に曹彰曹操死亡直後に曹植を立てようとしたという話が残っている。全く警戒しない、または起こり得ないと思っていたならば曹操は甘ちゃんすぎる。