(何武)及為御史大夫・司空、與丞相(翟)方進共奏言「往者諸侯王斷獄治政、内史典獄事、相總綱紀輔王、中尉備盜賊。今王不斷獄與政、中尉官罷、職并内史、郡國守相委任、所以壹統信、安百姓也。今内史位卑而權重、威職相踰、不統尊者、難以為治。臣請相如太守、内史如都尉、以順尊卑之序、平輕重之權。」制曰「可。」以内史為中尉。
(『漢書』巻八十六、何武伝)
前漢末、成帝の時の何武は「諸侯王の内史は地位が低いのに国政を牛耳っているため諸侯王の相よりも権力が大きくなっている。相を太守、内史を都尉のようにするべきだ」と主張し、それが承認された。
ここで思うのは、じゃあなぜ諸侯王の国には相と内史という二重構造が生まれたのか、ということだ。初めから内史だけ置いておけばいいではないか。
諸侯王、高帝初置、金璽盭綬、掌治其國。
有太傅輔王、内史治國民、中尉掌武職、丞相統衆官、羣卿大夫都官如漢朝。
景帝中五年令諸侯王不得復治國、天子為置吏、改丞相曰相、省御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士官、大夫・謁者・郎諸官長丞皆損其員。武帝改漢内史為京兆尹、中尉為執金吾、郎中令為光祿勳、故王國如故。損其郎中令、秩千石、改太僕曰僕、秩亦千石。成帝綏和元年省内史、更令相治民、如郡太守、中尉如郡都尉。(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)
そもそも諸侯王の官は漢王朝の中央の諸官とほぼ同じものが置かれていた。
少なくとも、以下の官については漢王朝と同じものが存在していたはずである。
- 太傅
- 丞相
- 御史大夫
- 郎中令
- 太僕
- 廷尉
- 宗正
- 少府
- 中尉
- 内史
(漢の九卿にはある奉常、衛尉、典客、治粟内史が見えない。)
それが、景帝の時に諸侯王から実権を奪われると共にこう変更された。
- 太傅
- 丞相→相
- 御史大夫→廃止
- 郎中令
- 太僕
- 廷尉→廃止
- 宗正→廃止
- 少府→廃止
- 中尉
- 内史
改変後はこうなる。
- 太傅
- 相
- 郎中令
- 太僕
- 中尉
- 内史
更に、武帝の時には郎中令の格下げと太僕から僕への改称も行われた。
さらに、どこかの段階で中尉も廃止されたと何武が言っている。
それも反映するとこういう状態になる。
- 太傅
- 相
- 内史
- 郎中令
- 僕
内史は太傅、相に続く高官になっていたのである。
また、なぜ相と内史双方が置かれなければならなかったのかという問題もある。
これは、諸侯王が置かれた当初は、諸侯王の国は複数の郡を含む巨大な領域の統治者だったという事情によるものだろう。
秦や漢初の内史というのは、「首都圏の」民政長官である。
諸侯王の内史というのも、たぶん「王国の首都圏の」民政長官なのだ。
言い換えると、諸侯王国全体の統治者ではなく、首都圏以外は王国内の郡守が統治したと思われるのだ*1。
丞相は内史と郡守が分かれて統治する広大な領域を統括したのだろう。
だが景帝以降、諸侯王の国はどんどん分割、削減され、ついには郡よりも小さくなった。
こうなると、「首都圏」が王国全域とイコールになる。つまり内史が統治するのが全域になってしまうのだ。
こうして、内史の統治領域=王国の全域=相が統括する範囲となってしまい、相が無意味になったのである。
そこで何武は内史を廃止し、中尉を復活させることで太守=相、都尉=中尉という対応に合わせたのだと思われる。