曹植の荊州派遣

(建安二十二年)冬十月、天子命王冕十有二旒、乗金根車、駕六馬、設五時副車、以五官中郎將丕為魏太子。
(『三国志』巻一、武帝紀)

建安22年、曹操曹丕を後継者と定め、正式に魏国の太子に立てた。



二十二年、筯置邑五千、并前萬戸。(曹)植嘗乗車行馳道中、開司馬門出。太祖大怒、公車令坐死。由是重諸侯科禁、而植寵日衰。太祖既慮終始之變、以楊脩頗有才策、而又袁氏之甥也、於是以罪誅脩。植益内不自安。
二十四年、曹仁為關羽所圍。太祖以植為南中郎將、行征虜將軍。欲遣救仁、呼有所勅戒。植醉不能受命、於是悔而罷之。
【注】
魏氏春秋曰、植將行、太子飲焉、偪而醉之。王召植、植不能受王命、故王怒也。
(『三国志』巻十九、陳思王植伝)

その一方、後継者を曹丕と争った曹植は、その頃から曹操の寵愛を失うようになった、という。



だが建安24年に関羽に包囲された曹仁を救援する軍の将軍として、曹操曹植を派遣しようとした。


それについて曹丕曹植を泥酔させて命令を受けられないように仕向けた、という話が伝わっている。





ここで問題になるのは、建安24年の曹植派遣がどういう意味を持っていたか、ということである。


もし泥酔する事なく曹植が予定通り派遣され、万一曹仁救出・関羽撃退の功績を立てたらどうなるか。



少なくとも、一旦は沈静化したはずの後継者問題が再燃する可能性があるだろう。



進撃の関羽献帝の許県からの移動すら検討するほどの危機であり、曹仁は曹氏の中でも特に地位と功績があった存在である。


つまり抜群の功を立てた事になるわけで、曹丕が太子になった事で口を閉ざすしかなかった「曹植派」は一気に勢いづき、その大きな功績を理由に太子の廃立を曹操に対して陰に陽に願い出るようになるだろう。




逆に言えば、そういう地位に曹植を置くという事自体が、「魏王は曹植に太子になる機会を再度与えようとした」と周囲が解釈した可能性が高い、という事ではなかろうか。




だからこそ、曹丕は太子という地位に付いていたにも関わらず更に曹植を追い落とすような策を実行した(と噂された)のだろう。曹植が素直に派遣されて前述の通り功を立てたら自分の地位が危ない、と認識したという事である。




魏略曰、(曹)彰至、謂臨菑侯(曹)植曰「先王召我者、欲立汝也。」植曰「不可。不見袁氏兄弟乎!」
(『三国志』巻十九、任城威王彰伝注引『魏略』)

そしてこれは、曹操死亡直後に曹彰曹植に対して「父が私を召し出したのは、お前を(魏王に)立てようとしたからだ」と言った、という話とも繋がる。



曹操がそれを直接指示したかどうかははっきりしないが、少なくとも曹彰からすると、その頃の曹操の望みが「曹植を次の魏王にすること」だと解釈できた、という事だ。


何故なら、上記のような人事自体が曹植への太子交代を目指したものと解釈するのが普通だったからだろう。




曹丕曹彰も、そしておそらくは周囲の群臣たちも、曹植の派遣は太子交代の前触れだ、と思ってしまうようなものだった、と考えられる。