百日ルール

(嘉平)五年夏四月、大赦。五月、呉太傅諸葛恪圍合肥新城、詔太尉司馬孚拒之。
【注】
是時、張特守新城。魏略曰、特字子産、涿郡人。・・・(中略)・・・特乃謂呉人曰、今我無心復戰也。然魏法、被攻過百日而救不至者、雖降、家不坐也。自受敵以來、已九十餘日矣。此城中本有四千餘人、而戰死者已過半、城雖陷、尚有半人不欲降、我當還為相語之、條名別善惡、明日早送名、且持我印綬去以為信」乃投其印綬以與之。呉人聽其辭而不取印綬、不攻。頃之、特還、乃夜徹諸屋材柵、補其缺為二重。明日、謂呉人曰「我但有鬭死耳!」呉人大怒、進攻之、不能拔、遂引去。
(『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平五年)


魏で合肥を守っていた張特は、攻めてきた呉に対してこう言っている。

「自分は戦う気はない。だが魏の法律では攻撃されて百日経過しても救援が来なかったら、降伏しても家族は罪に問われないことになっている。今は九十日以上経っているので、自分は城の人間を説得しよう」

これは時間稼ぎのための嘘だったのだが、ここからは二つのことが分かる。


まず、百日以内の降伏は残してきた家族が罪に連坐することになったということ。
理不尽な気もするが、まあ、時代を考えれば不思議なことではない。
近現代でも法的に罰されるか私刑が行われるかの違いでしかないかもしれないけれど。


もう一つ、敢えて「百日」という期限を切り、それを過ぎたら降伏しても家族は罰を受けないということ。
もっとも一家の大黒柱が国からいなくなるのだし、社会的にもくるしい立場になるのだから、残された家族が辛いことには変わりないかもしれないが。


多分、こういった期限を付けないと、逆に守備兵の士気に関わったのだろう。
仮に絶望的な状況でも、「百日守り切れば降伏してもいい」と思えれば逆にその百日は守り切るだけの士気が維持できる。
こういった期限がなかったら、「いつまで待っても援軍来ないんじゃね?絶対全滅じゃね?」と守備兵が思った瞬間に士気はガタ落ちするだろう。百日も持たないことになる。
人道的な見地ではなく、戦略的な面から導入されていた制度なのだと思う。