仙人太守

魏略曰、天水王遷、承代(倉)慈、雖循其迹、不能及也。金城趙基承遷後、復不如遷。至嘉平中、安定皇甫隆代基為太守。初、燉煌不甚曉田、常灌溉滀水、使極濡洽、然後乃耕。又不曉作耬犂、用水、及種、人牛功力既費而收穀更少。隆到、教作耬犂、又教衍溉、歲終率計、其所省庸力過半、得穀加五。又燉煌俗、婦人作裙、攣縮如羊腸、用布一匹。隆又禁改之、所省復不訾。故燉煌人以為隆剛斷嚴毅不及於慈、至於勤恪愛惠、為下興利、可以亞之。
(『三国志』巻十六、倉慈伝注引『魏略』)

三国時代敦煌太守に皇甫隆という人物がいた。



彼は敦煌の農業や習俗を改めて豊かにしたのだと伝えられているが、この人物にはもう一つの別の面があったことをご存じだろうか。





武帝時、(劉京)故遊行諸弟子家、皇甫隆聞其有道乃随事之、以雲母朱英丸及交接之道二方教隆。隆按合行服之、色理日少、髪不白、歯不落、年三百餘歳、不知能得度世不耳。
(葛洪『神仙伝』、劉京)

劉京というのは漢の文帝の時の人間であったが不老長寿や各種秘術を身に着けた人物で、当然のように曹操の時代でもなお生きていた。



皇甫隆はそんな彼に師事して寿命を延ばす薬の処方と房中術を授けられ、その薬のおかげで皇甫隆もまた不老長寿を得ていたというのである。




この話の時系列で行くと、敦煌太守だった時には既に不老長寿を得た状態であったことになる。






これ自体は言うまでも無く事実とは思えないわけだが、どうして皇甫隆のようなマニアックともいえる人物についてそういった話が残ったのだろう。


それとも敦煌太守と仙人の皇甫隆は別人ということなのだろうか。