舊儀、三公領兵朝見、令虎賁執刃挾之。(曹)操出、顧左右、汗流浹背、自後不敢復朝請。
(『後漢書』本紀巻十下、皇后紀下、献帝伏皇后紀)
兵を指揮する三公であった曹操は、皇帝に謁見する際には漢のしきたりにより近衛兵である虎賁が武器を持っている間に置かれることになっていた。
皇帝が命じれば、あるいは虎賁がその気になればいつでも殺せるということである。
さすがの曹操も肝を冷やし、その後皇帝に謁見しようとしなかったという。
この虎賁を統率するのは虎賁中郎将。
そして虎賁中郎将の上司は光禄勲。
光禄勲の下には虎賁中郎将のほかにも五官中郎将、左中郎将、右中郎将、羽林中郎将といった指揮官がおり、それぞれが「郎」を統率していた。
本注曰、無員。凡郎官皆主更直執戟、宿衛諸殿門、出充車騎。唯議郎不在直中。
(『続漢書』志巻二十五、百官志二、五官中郎将)
「郎」とは宮殿内の衛兵であり、時には出征もするエリート部隊である。
上記の虎賁のように朝廷の謁見の場で皇帝を守るのも当然彼らの仕事だったはずである。
ここで曹操の冷や汗に戻る。
ひどく怖い目にあった曹操。
董承らの暗殺計画を退け、袁氏を打倒し、丞相にもなろうというとき、曹操はきっと考えたことだろう。
「董卓は暗殺で滅んだ。一番暗殺の危険があるのは朝廷だ。謁見の場で前のようにまた武器に囲まれることになったら、今度こそ命が危ないかもしれん。
しかし、いつまでも謁見の場から逃げ続けることもできん。・・・そうだ、誰よりも信頼出来る者に衛兵を監視させればいいんだ!俺天才!」
彼を「郎」を監視できる地位に置く。これこそが曹丕が五官中郎将に任命され、以後ずっとその地位に居続けた理由ではなかろうか。
この役割がある以上、曹丕は少なくとも他の官署には遷れない。
光禄勲に昇進というのは考えられたのかもしれないが、直接に「郎」を率いるのはあくまでも中郎将であったようなので、官位は下であっても当時の情勢では中郎将のままのほうがむしろ好都合だったのかもしれない。
なぜ数ある中郎将の中でも五官中郎将だったのかは謎のままなのだが、単に空席だったのかもしれないし何か特別な意味合いがあったのかもしれない。
そこはちょっとわからない。