孫邵と張温

四年夏五月、丞相孫邵卒。
【注】
吳録曰、邵字長緒、北海人、長八尺。為孔融功曹、融稱曰「廊廟才也」。從劉繇於江東。及權統事、數陳便宜、以為應納貢聘、權即從之。拜廬江太守、遷車騎長史。黄武初為丞相・威遠將軍、封陽羨侯。張温・暨豔奏其事、邵辭位請罪、權釋令復職。年六十三卒。
志林曰、呉之創基、邵為首相、史無其傳、竊常怪之。嘗問劉聲叔。聲叔、博物君子也、云「推其名位、自應立傳。項竣・丁孚時已有注記、此云與張惠恕不能。後韋氏作史、蓋之黨、故不見書。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、黄武四年)

三国時代の呉。孫権が呉王を名乗った際の最初の丞相は孫邵という人物だった。


注によれば、彼の伝記が韋昭の『呉書』に立てられていないのは孫邵と張温(字恵恕)が仲が悪く、張温の派閥に連なる韋昭が意図的に落としたという説があったという。



その真偽その他は何とも言えないが、孫邵在任中に張温と暨豔の騒動があったらしいことを考えると、孫邵と張温の不仲というのは単なる感情論だけではないのだろう。

つまり、暨豔と張温が失脚する一連の騒動において、丞相孫邵が一枚噛んでいて、張温側の人間にとっては孫邵は仇敵だったのではなかろうか。

何しろ、丞相ということはこの時の事件を調べ、断を下す際にも関わっていた可能性が高い。
張温を弁護せず、いわば見殺しにしたとして張温ゆかりの者に恨まれても不思議ではない。