襄陽を巡る二つの話

魏文帝即位、封河津亭侯、轉丞相長史。
會孫權帥兵西過、朝議以樊・襄陽無穀、不可以禦寇。時曹仁鎮襄陽、請召仁還宛。帝曰「孫權新破關羽、此其欲自結之時也、必不敢為患。襄陽水陸之衝,禦寇要害,不可棄也。」言竟不從。仁遂焚棄二城、權果不為寇、魏文悔之。
(『晋書』巻一、宣帝紀

及即王位、拝(曹)仁車騎將軍、都督荊・揚・益州諸軍事、進封陳侯、增邑二千、并前三千五百戸。追賜仁父熾諡曰陳穆侯、置守冢十家。
後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽、詔仁討之。仁與徐晃攻破邵、遂入襄陽、使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北、文帝遣使即拝仁大將軍。
(『三国志』巻九、曹仁伝)

昨日も引用したこの二つの記事、よくよく読むと「孫権は襄陽を攻めてこないから放棄する必要も無い、と司馬懿が言ったが曹丕は従わず襄陽を放棄、しかし孫権は襄陽を攻めてこなかった」という『晋書』宣帝紀と、「曹仁が襄陽から宛に戻ったら孫権が襄陽を占拠した」という『三国志曹仁伝は、微妙に話が違ってる気がする。



というか、孫権は結局襄陽を攻めたわけで、司馬懿の見立ては間違ってたんじゃないかって気もする。





単に『晋書』のエピソードが司馬懿持ち上げのために作られたって可能性もあるだろうが、この二つを同じ事を言っていて、それでいて矛盾なく理解することも出来ない事もなかろう。




つまり、襄陽放棄の直後(延康元年前半)は孫権曹丕を憚って襄陽占拠をしなかったが、延康元年後半から黄初2・3年頃になると、夷王や沔水流域の帰順や、もしかすると劉備撃破などもあって孫権が気を大きくして、蜀攻めのためにも襄陽を確保しておこうとなった、という感じなのではなかろうか。



すぐには孫権が襄陽占拠をしなかったなら短期的には『晋書』宣帝紀の言うことも間違いではなく、孫権による襄陽占拠が曹仁による攻撃の直前であれば『三国志曹仁伝の記述とも矛盾はしないだろう。