孫登の正室

(周)瑜両男一女。女配太子登。男循尚公主、拜騎都尉、有瑜風、早卒。
(『三国志』巻五十四、周瑜伝)

呉書曰、芮玄卒、(潘)濬并領玄兵、屯夏口。
玄字文表、丹楊人。父祉、字宣嗣、從孫堅征伐有功、堅薦祉為九江太守、後轉呉郡、所在有聲。玄兄良、字文鸞、隨孫策平定江東、策以為會稽東部都尉、卒、玄領良兵、拜奮武中郎將、以功封溧陽侯。
權為子登揀擇淑媛、羣臣咸稱玄父祉兄良並以紱義文武顯名三世、故遂娉玄女為妃焉。黄武五年卒、權甚愍惜之。
(『三国志』巻六十一、潘濬伝注引『呉書』)


三国時代、呉の皇帝孫権の長男孫登。

彼の妻として史書に見えるのは以上の二名である。



さて、この二人はどういう関係だろうか。

思うに、芮玄の娘は「妃」と言われている。
これは「太子の正妻」という公式な地位を表す語であり、たんなる側室には与えられない。

つまり孫登が太子になって以降、正妻として立てられたのは芮玄の娘である。



では周瑜の娘は側室だったのかというと、それも少々考えにくいところだ。
周瑜の生前の地位や孫権らとの関係を考えれば、やはり彼女もまた正妻だったのではなかろうか。



おそらく、最初の正妻は周瑜の娘だったのだが、孫登が太子になる頃には早死にしていたのではないだろうか。


それにしても芮玄らのことが陳寿三国志』にはまるで載っていないのはちょっと不思議な感じがする。まあこれは考え出すとキリがないが。