昨日の私の仮説を前提とすればの話だが、孫権が孫登を太子としたのは、孫権本人の意思よりは陸遜以下臣下などへの配慮などによる部分の方が大きかったことになる。
言い換えれば孫権は積極的ではなかったことになる。元々正妻から廃するつもりの徐氏を母としているから、むしろあまり乗り気じゃなかった可能性の方が高いのではないか。
その一方、孫権は次子孫慮を臣下から言われても王にせずにおく、という措置を取っている。
孫権からすると立太子にあまり乗り気ではなかった孫登と、孫権に寵愛されつつ王にはせずに「切り札を取っておく」という感じの孫慮。
この状態というのは、もしかすると「皇太子孫和とほぼ同格の魯王孫覇」と似た構図だったのではないか?
どちらも太子の側は弟が自分にとって代わるのではないかとの危惧を抱くことになり、弟の側は自分が太子になる目があるのではないかと期待する。
孫登と孫慮の時点で、既に「二宮」状態になっていたのではないだろうか。