『晋書』武帝紀を読んでみよう:その39

その38(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/11/10/000100)の続き。





三年春正月丁丑、罷秦州、并雍州。
甲午、以尚書張華都督幽州諸軍事。
三月、安北將軍嚴詢敗鮮卑慕容廆於昌黎、殺傷數萬人。
夏四月庚午、太尉・魯公賈充薨。
閏月丙子、司徒・廣陸侯李胤薨。
癸丑、白龍二見于濟南。
秋七月、罷平州・寧州刺史三年一入奏事。
九月、東夷二十九國歸化、獻其方物。
呉故將莞恭・帛奉舉兵反、攻害建鄴令、遂圍揚州、徐州刺史嵇喜討平之。
冬十二月甲申、以司空・齊王攸為大司馬・督青州諸軍事、鎮東大將軍・琅邪王伷為撫軍大將軍、汝南王亮為太尉、光祿大夫山濤為司徒、尚書令衛瓘為司空。
丙申、詔四方水旱甚者無出田租。
(『晋書』巻三、武帝紀)


太康3年。



この年に呉人莞恭・帛奉が反乱を起こし、建鄴を殺して揚州刺史にも迫ったという事らしい。なかなかの大事件ではないか。


火種は完全には消えていなかったという事なのだろう。



前にも書いたかもしれないが、この乱の鎮圧に当たった徐州刺史嵇喜は嵇康の兄。嵇喜は衛将軍司馬攸の司馬、江夏太守、徐州刺史、揚州刺史(『晋書』賀循伝)、太僕、宗正(『晋書』嵇康伝)などを歴任したようだ。「白眼視」の由来になった人物としての方が有名になっている彼だが、官僚・将としてはそれなりに活躍したと言えよう。