昨日(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110214/1297609494)の続き。
荀紣が西暦189年に孝廉に推挙されて最初に就いた官は守宮令で、その次に就いた官は亢父県令。そこで官を捨てて郷里に戻った。
これだけの内容だが、『三国志』と『後漢書』ではそれに関する記述がまるで違っている。
まず、『三国志』では孝廉に推挙されたのが「永漢元年」と特定されるのに対し、『後漢書』では「中平六年」となっている。
『後漢書』孝献帝紀によれば永漢の年号が最終的に否定され、西暦189年に当たる年は最初から最後まで「中平六年」でした、というちゃぶ台返しな命令が出されているので、『後漢書』の記述は間違いではない。
だが、『三国志』の方を知らずに読んだ者は、荀紣が孝廉に推挙されたのが西暦189年のいつごろなのか不明である。
おそらくだが、董卓が少帝を廃位して献帝を擁立すると同時に立てられた年号である「永漢」の間に推挙を受け官位を貰ったということになると、荀紣が董卓の協力者であるかのような印象を受けることになるため、『後漢書』あるいはその元ネタの記事ではその印象をぼかすために敢えて「中平六年」と書き換えたのだろう。
「詔に従って永漢ではなく中平で記しただけ」という言い訳もできる印象操作である。
更に目立つ点として、『後漢書』では「守宮令」に就任したことを書いていない。
「再遷亢父令」なので、亢父令の前に何かの官に就いていたことは否定していないから、事実を捻じ曲げてはいないとは言えるが、『三国志』と比べれば「守宮令」就任の事実を隠そうとしたのは明らかである。
おそらく、守宮令という皇帝の近臣に董卓時代に就任したという事実は年号の件と同じで董卓との協力関係を疑わせるもので、少なくとも後世の荀紣を美化、称揚したい立場の者からすれば隠したいことだったのだろう。
もしかすると、昨日書いたように守宮令が元は宦官の官だったということも隠蔽の理由の一つだったかもしれない。
そしてもう一つ、『三国志』には「求出補吏」、つまり「地方官になることを願い求めた」という一文があってから亢父令になったという関係なのに対し、『後漢書』にはその四文字が無い。
これも重要な違いだ。『三国志』の方が荀紣の危機察知能力のようなものを示しているが、一方で「自分だけ助かるために逃げた」ようにも考えられる。
『後漢書』では荀紣が利己的な意図から官を離れたという印象を与えないため「求出補吏」という文を抹殺したのではないだろうか。
『後漢書』荀紣伝は、徹底的に董卓政権への接近を隠しているのだと思われる。
『後漢書』だけを読めば、荀紣をこんなイメージで捉えることができる。
荀紣は霊帝が死んだ年である中平六年に孝廉に推挙され、出世して亢父令になったが、ちょうど董卓による権力を握り皇帝廃立などの乱行があったので、董卓に従えないと思い郷里に帰った。
一方、『三国志』を読むとこんな風に考えることもできる。
荀紣は霊帝の後を継いだ少帝が董卓によって廃位された後の永漢元年に孝廉に推挙され、董卓が権力を握る朝廷で宦官の代わりに皇帝の近臣になっていたが、反董卓の挙兵などの混乱が起こると、董卓の元から逃げ出すことを画策して亢父令に任命され、都を出てそのまま逃げだした。