今度は三国志の時代の著名人がしばしば就任した「侍中」について説明する。
侍中、比二千石。
本注曰、無員。掌侍左右、贊導衆事、顧問應對。法駕出、則多識者一人參乗、餘皆騎在乗輿車後。本有僕射一人、中興轉為祭酒、或置或否。
(『続漢書』志第二十六、百官志三)
皇帝の秘書官が「尚書」なら、皇帝のブレーンや相談役に当たるのが「侍中」である。
後漢頃の「侍中」は上記のとおり「顧問応対」、つまり皇帝が何か質問したらすぐに答える、というのが役割と言える。
皇帝自身が疑問に思うことに対して答えるわけだから、言い換えると皇帝の意向に影響を及ぼし得るということでもあるので、重要な官職と言っていいだろう。
皇帝の側近であるわけだから身だしなみなどにもうるさかったようで、口が臭いからなんとかしろなどと言われた侍中もいた。
漢代、禁中(皇帝の私的空間)にも入って常に皇帝の側に仕えていた時期もあったが、後漢末はそこまでではないらしい。
実は、前漢頃は侍中は皇帝の「おまる」や「たんつぼ」を持ち歩くという文字通り皇帝のお世話役だったそうで、それ故にどこであろうと皇帝に付いていく必要があったのだろう*1。
だが、皇帝の側に付き従うということは皇帝が最も親しんでいる人物ということであるので、侍中から出世していく人物が増えるにつれて、侍中の役割も変化していったのだろう。
皇帝が傀儡状態であれば、侍中は皇帝の監視であったり、皇帝を意のままに操るという目的にとって重要な官職に早変わりする。
つまり、荀紣は尚書令という官職で皇帝の文書の流れの中心に位置し、侍中という官職で皇帝の言動を間接的に制御するという役割を担っていたということになる。