守宮令

漢代、「守宮令」という官があった。
皇帝の文房具なんかを取り扱う官であるから、高官ではないが皇帝のそば仕えという意味では顕官であろう。

永漢元年、舉孝廉、拜守宮令。董卓之亂、求出補吏。
(『三国志』巻十、荀紣伝)

かの荀紣が孝廉に推挙され中央の官に初めて就いたのがこの官であったことが有名である。


六月、初以小黄門為守宮令、置宂從右僕射官。
(『後漢書』本紀巻七、孝桓帝紀、永寿三年)

小黄門、六百石。本注曰、宦者、無員。掌侍左右、受尚書事。上在内宮、關通中外、及中宮已下眾事。諸公主及王太妃等有疾苦、則使問之。
(『続漢書』志巻二十六、百官志三、少府)

ところで、その守宮令は後漢後半においては小黄門、乃ち宦官が就任する官となっていたらしい。
先に書いたように皇帝のそば仕えなので、ある意味では当然とも言える。

賜公卿以下至黄門侍郎家一人為郎、以補宦官所領諸署、侍於殿上。
(『後漢書』本紀巻九、孝献帝紀、永漢元年九月)

ではなぜ宦官ではない荀紣がこの官に就いているかというと、荀紣が出仕する直前にあった宦官殺戮事件の影響があるのである。
宦官がいなくなったので、宦官が就任していた官に宦官以外の官僚が就くしかなかったのだ。

荀紣は宦官のポストが空いたところの穴埋めだったとも言えるかもしれない。