孫晧、王を立てる

二年秋七月、立成紀・宣威等十一王、王給三千兵、大赦
(『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀二年)

呉の孫晧の天紀二年、孫晧は成紀王・宣威王など十一人の王を立てたという。

この年は西暦で言うと278年。呉は滅亡直前である。
「なんだ、滅亡前の断末魔じゃないか」と思うだろう。まあ、それは間違っていない。

だが、なぜ孫晧は王を立てる時に成紀王・宣威王などの名を用いたか。



「成紀」というと、あの李広とか李陵とかの李さん一家の出身地。涼州である。
「宣威」は武威郡所属の県。涼州である。
つまり孫晧涼州方面に王を立てたことになる。
もちろん現実には何も影響を及ぼさない遥任、形だけの封建であるが。


なぜ孫晧涼州に王を立てたのか。



実は、同じ頃に晋ではこういうことが起こっていた。

六月丁未、陰平・廣武地震、甲子又震。涼州刺史楊欣與虜若羅拔能等戰于武威、敗績、死之。
(『晋書』巻三、武帝紀、咸寧四年)

同じ西暦278年、涼州では刺史が鮮卑に敗れて戦死していた。

ぶっちゃけ、孫晧としては超メシウマな事件であろう。
おそらく、それを記念し、現実には何の影響も無いとしても形だけでもそれにあやかり、あるいは鮮卑に同調し晋を共に攻めようという意図から、晋が敗北した地に王を立てたのではかろうかと思われる。