『晋書』武帝紀を読んでみよう:その32

その31(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/31/000100)の続き。





四年春正月庚午朔、日有蝕之。
三月甲申、尚書左僕射盧欽卒。辛酉、以尚書右僕射山濤為尚書左僕射。
東夷六國來獻。
夏四月、蚩尤旗見於東井。
六月丁未、陰平・廣武地震、甲子又震。
涼州刺史楊欣與虜若羅拔能等戰于武威、敗績、死之。
弘訓皇后羊氏崩。
(『晋書』巻三、武帝紀)

咸寧4年前半。



盧欽は祖父が盧植、父が盧毓。晋以前から淮北都督などになり、皇帝司馬炎の元では都督沔北諸軍事などにもなっていた。


魏高貴郷公正元元年十一月、有白氣出斗側、廣數丈、長竟天。王肅曰「蚩尤之旗也。東南其有亂乎!」二年正月、毌兵儉等據淮南以叛、大將軍司馬師討平之。案占「蚩尤旗見、王者征伐四方。」自後又征淮南、西平巴蜀
(『宋書』巻二十三、天文志一)


「蚩尤旗」というのは彗星の一種だそうだ。戦乱や天子による征伐の予兆とされていたらしい。




刺史、また敗死。


楊欣も征蜀戦に登場した将であったが、涼州方面では年中行事のごとく刺史が討ち取られるのであった。




弘訓太后羊氏というのは景帝司馬師の正妻だった羊徽瑜の事。司馬炎の時代では弘訓宮に居て皇太后扱いされていたそうな。