石印三郎

鄱陽言歴陽山石文理成字、凡二十、云「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」。
【注】
江表傳曰、歴陽縣有石山臨水、高百丈、其三十丈所、有七穿駢羅、穿中色黄赤、不與本體相似、俗相傳謂之石印。又云、石印封發、天下當太平。下有祠屋、巫祝言石印神有三郎。時歴陽長表上言石印發、晧遣使以太牢祭歴山。巫言、石印三郎説「天下方太平」。使者作高梯、上看印文、詐以朱書石作二十字、還以啟晧。晧大喜曰「呉當為九州作都・渚乎!從大皇帝逮孤四世矣、太平之主、非孤復誰?」重遣使、以印綬拜三郎為王、又刻石立銘、褒贊靈紱、以答休祥。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝)

三国呉の孫晧の時代、今にも晋が滅ぼしにかかってくるような頃のことである。


歴陽山というところに石に謎の七つの孔が開いていて、それが「石印」と呼ばれていた。そして、「石印」の封印が解けると天下太平となる、と言い伝えられていた。
またそれには「石印三郎」という神霊が宿っているとされていたようである。

孫晧の時、県の長官がその「石印」の封印が解けたと報告した。
皇帝孫晧は使者に見に行かせた。その使者は、実際に現場に見に行くと、自ら「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」なる二十文字を書いた。
つまり、捏造である。


孫晧は大喜びして「石印三郎」に王位を贈り、碑文を立てるなどしてこの(偽)奇蹟を称揚したという。


実際には晋による(短い)太平が訪れたというオチなのだろう。