哀帝時代の改革

詔曰「河間王良喪太后三年、為宗室儀表、益封萬戸。」
又曰「制節謹度以防奢淫、為政所先、百王不易之道也。諸侯王・列侯・公主・吏二千石及豪富民多畜奴婢、田宅亡限、與民爭利、百姓失職、重困不足。其議限列。」
有司條奏「諸王・列侯得名田國中、列侯在長安及公主名田縣道、關内侯・吏民名田、皆無得過三十頃。諸侯王奴婢二百人、列侯・公主百人、關内侯・吏民三十人。年六十以上、十歳以下、不在數中。賈人皆不得名田・為吏、犯者以律論。諸名田畜奴婢過品、皆沒入縣官。
齊三服官・諸官織綺繡、難成、害女紅之物、皆止、無作輸。
除任子令及誹謗詆欺法。
掖庭宮人年三十以下、出嫁之。
官奴婢五十以上、免為庶人。
禁郡國無得獻名獸。
益吏三百石以下奉。
察吏殘賊酷虐者、以時退。
有司無得舉赦前往事。
博士弟子父母死、予寧三年。」
(『漢書』巻十一、哀帝紀、綏和二年六月)

漢の哀帝即位直後、このような詔勅が出された。

最初の部分は個人が持てる田宅を制限する、いわゆる「限田制」である。
当時、各地でいわゆる豪族による兼併が進んでいたことを示すものであると言える。
この制度は実際には施行されなかった(『漢書』食貨志上)と言われるが、少なくとも何らかの手を打とうとしたものとは言えるだろう。


また、それ以外にもいくつかの改革がなされている。


特に「除任子令」は重要で、高級官僚が子弟を官僚に推薦するという任子が前漢の高級官僚登用の常道だったのだが、それを廃止しようと言うのである。


「官奴婢五十以上、免為庶人」も、素直に読む限り五十歳以上の官奴婢をすべて解放するということであり、時代を考えればすこぶる大胆な奴隷解放宣言と言えるだろう。


また、「博士弟子父母死、予寧三年」も実は結構大胆な命令である。
何故なら、漢は文帝の遺言に基づき官僚は父母の死に与えられる忌引きは「以日易月」の三十六日で、三年の喪を実行することは許されなかったのである。
それを、博士弟子に限るとはいえ三年の喪を認め、推奨したということなのであるから、文帝の制度を転換したということだ。



これらの改革、命令はいずれも当時三公の座にあった儒者官僚たちの意向による部分が強かったと思われる。
おそらく王莽の諸改革の第一弾、プロトタイプに位置づけられるのだと思われる。