尚広

干寶晉紀曰、王濬治船於蜀、吾彦取其流柹以呈孫晧、曰「晉必有攻呉之計、宜增建平兵。建平不下、終不敢渡江。」晧弗從。陸抗之克歩闡、晧意張大、乃使尚廣筮并天下、遇同人之頤、對曰「吉。庚子歳青蓋當入洛陽。」故晧不脩其政、而恆有窺上國之志。是歲也實在庚子。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀四年、注引干宝『晋紀』)

孫晧は尚広なる者に易占をやらせてみたところ、「庚子の年には洛陽に入る事になるでしょう」との結果を得たので政治を変えなかった、という。この話のオチは言うまでもないだろう。


周易雜占九卷、尚廣撰。有周易雜占八卷、武靖撰、亡。
(『隋書』巻三十四、経籍志三、子、五行)

この尚広、いきなり出てきて何者かと思ったら、どうやら易占で結構名を知られていたであろう人物だったらしい。



こういう著書も残るような、易占については著名であったろう人物による占いだから孫晧も信じたということか。