交阯刺史と交州刺史

順帝永和九年*1、交阯太守周敞求立為州、朝議不許、即拜敞為交阯刺史。桓帝分立高興郡、靈帝改曰高涼。建安八年、張津為刺史、士燮為交阯太守、共表立為州、乃拜津為交州牧。
(『晋書』巻二十、地理志下、交州)


漢の交州について。
順帝の時、交阯太守周敞はこの地に州を作ることを中央に求めたが認められず、「交阯刺史」に任命された。


つまり、「交阯刺史」と「交州刺史」はイコールではないのである。
周敞、張津らの働きかけから考えると、前者は正式に州として認められないまま周辺の郡を監督するという臨時的な扱いのものなのだろう。
内地とは違う辺境扱いと思われる。
彼らは交阯方面はもはや辺境ではない、正式な州を立てて欲しい、と言っているのだ。


『続漢書』では州のひとつとして「交州」という区分がされているが、実際にこの区分が正式に成立したと言えるのは後漢末建安年間だったのである。

*1:永和は六年までしかないので何らかの誤りがあるが、一応このままにしておく。