六条詔書

至譙、以(賈)逵為豫州刺史。是時天下初復、州郡多不攝。逵曰「州本以御史出監諸郡、以六條詔書察長吏二千石已下、故其状皆言嚴能鷹揚有督察之才、不言安靜寬仁有愷悌之徳也。今長吏慢法、盜賊公行、州知而不糾、天下復何取正乎?」兵曹從事受前刺史假、逵到官數月、乃還。考竟其二千石以下阿縱不如法者、皆舉奏免之。
帝曰「逵真刺史矣。」布告天下、當以豫州為法。賜爵關内侯。
(『三国志』巻十五、賈逵伝)

時公卿以下大議損益、(杜)恕以為「古之刺史、奉宣六條、以清靜為名、威風著稱、今可勿令領兵、以專民事。」
(『三国志』巻十六、杜恕伝)

三国志』の賈逵や杜恕の話の中で、州刺史が「六条詔書」を奉じて郡太守を監察する、という内容がある。


これはどういうものなのか。






監御史、秦官、掌監郡。漢省、丞相遣史分刺州、不常置。武帝元封五年初置部刺史、掌奉詔條察州、秩六百石、員十三人。成帝綏和元年更名牧、秩二千石。哀帝建平二年復為刺史、元壽二年復為牧。
【注】
師古曰「漢官典職儀云刺史班宣、周行郡國、省察治状、黜陟能否、斷治冤獄、以六條問事、非條所問、即不省。
一條、強宗豪右田宅踰制、以強淩弱、以衆暴寡。
二條、二千石不奉詔書遵承典制、倍公向私、旁詔守利、侵漁百姓、聚斂為姦。
三條、二千石不卹疑獄、風厲殺人、怒則任刑、喜則淫賞、煩擾刻暴、剝截黎元、為百姓所疾、山崩石裂、祅祥訛言。
四條、二千石選署不平、苟阿所愛、蔽賢寵頑。
五條、二千石子弟恃怙榮勢、請託所監。
六條、二千石違公下比、阿附豪強、通行貨賂、割損正令也。」
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)

「六条詔書」というのは、上記の6項目らしい。



1つ目は、豪族が定めを越えて兼併を図ろうという時。


2つ目は、太守は詔書の命令を守らず、私腹を肥やして民を苦しめている時。


3つ目は、太守が裁判に情けをかけず、人を殺させるよう使嗾したり、怒りに任せて刑罰を決めたり、自分の気分で恩賞を与えたり、命令が煩雑で過酷だったりといった事で民に憎まれていて、天も警告を発している時。


4つ目は、太守の部下の任用が不公平で自分のお気に入りを優遇している時。


5つ目は、太守の子弟が太守の権勢を笠に着てい不正を働いている時。


6つ目は、太守が公よりも私を優先し、豪族と癒着し賄賂が横行している時。




「非條所問、即不省」とあるところを見ると、上記の6項目以外の部分であれば本来は刺史が口を出すべきではない、という事のようだ。





賈逵は当時の州内がまさにこの6項目に当てはまる事例ばかりである事から厳しく摘発し(ということは、それまでの刺史は賈逵から見ると寛大に過ぎたのだろう)、杜恕は刺史の仕事を6項目の監察のみに戻そうとした(ということは、それまでの刺史は軍事などにも手を出していて6項目の監察のみという建前は崩れていたのだろう)という事だ。