許生と許昌

昨日の記事のid:gureneko氏の指摘を受けて調べてみたらちょっと面白いことになっていた。

(熹平元年)十一月、會稽人許生自稱「越王」、寇郡縣、遣楊州刺史臧旻、丹陽太守陳夤討破之。
(中略)
(熹平三年)十一月、楊州刺史臧旻率丹陽太守陳寅、大破許生於會稽、斬之。
(『後漢書霊帝紀)

東觀記曰會稽許昭聚眾自稱大將軍、立父生為越王、攻破郡縣。
(『後漢書霊帝紀注)

會稽妖賊許昌起於句章、自稱陽明皇帝、與其子詔扇動諸縣、眾以萬數、(孫)堅以郡司馬募召精勇、得千餘人、與州郡合討破之。是歳、熹平元年也。
(『三国志孫堅伝)


後漢書霊帝紀では熹平元年に反乱を起こし楊州刺史らに討たれるのは「許生」であるという。
そして、「許生」は「越王」を自称したとされる。
『東観漢記』では「許昭」が「大将軍」を自称し、その父の「許生」を「越王」に立てたのだという。

これらを総合すると、「許生」と「許昭」は親子であり、「許生」が「越王」、「許昭」が「大将軍」を称したということになるだろう。


一方、昨日も引用した『三国志』呉書では、「許昌」が「陽明皇帝」で、その子は「許詔」だという。
「許生」の名前は出てこない。

「許詔」は字形が似ている「許昭」と同一人物の可能性が高い。
晋王朝の諱を避けて「許詔」になったのではないかと言われているようだ。
ということは、「許詔」=「許昭」の父は「許昌」=「許生」ということになる。


これを総合すると、id:gureneko氏が言っていたように、「許生」は「越王」を名乗り、その後「許昌」と改名して自らの名前を預言に一致させ、漢を倒す者として「陽明皇帝」を称したのではなかろうか。

なぜ『後漢書』に陽明皇帝の事が載っていないのかというのは少々疑問だが、何らかの理由でその事実が中央に伝わらず、公式記録には記録されなかったのだろうか。