さて、三国志の時代の官職を知る上で、官職ではないが重要な地位の人物がいる。「皇帝」である。
「皇帝」は言うまでもなく中華王朝における最高権力者であるが、じゃあ実際にどういうなりたちでどういう立場なのかというとよくわからないかもしれない。
丞相綰・御史大夫劫・廷尉斯等皆曰「昔者五帝地方千里、其外侯服夷服諸侯或朝或否、天子不能制。今陛下興義兵、誅殘賊、平定天下、海内為郡縣、法令由一統、自上古以來未嘗有、五帝所不及。臣等謹與博士議曰『古有天皇、有地皇、有泰皇、泰皇最貴。』臣等昧死上尊號、王為『泰皇』。命為『制』、令為『詔』、天子自稱曰『朕』。」王曰「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝 』。他如議。」制曰「可。」
(『史記』巻六、秦始皇本紀)
「皇帝」の称号を最初に名乗ったのが「秦の始皇帝」であることはよく知られている。
それまでも中国全体の君主はいたが、それは「帝」や「王」であって「皇帝」ではなかった(秦の前は「周王」)。
「天子」とも呼ばれている。
「天子」は天からの啓示を受けて天下を治める能力と高潔な人格を備えた大人物が皆に認められて即位し、次の皇帝も実力本位で選ぶ、という考え方があった。
それが「禅譲」である。
ただ世襲が無かったかというとそういうことでもなく、次第に世襲が基本となっていく。
その一方で、夏王朝の桀、殷王朝の紂は政治を乱して支持を失い、当時の実力者によって天子の位を追われ討伐されることとなった。
それを「放伐」と言った。
殷王朝の紂を放伐した周王朝は長い期間天子であったが、各地の諸侯の中で力を付けた者なども「王」を名乗るようになり、あっちもこっちも王だらけという状態となっていった(いわゆる「春秋戦国時代」)。
そのような状況で諸国を討ち天下統一を果たした秦王は「皇帝」というそれまでの王を超える天子の称号を創設したのであった。
正月、諸侯及將相相與共請尊漢王為皇帝。漢王曰「吾聞帝賢者有也、空言虚語、非所守也、吾不敢當帝位。」羣臣皆曰「大王起微細、誅暴逆、平定四海、有功者輒裂地而封為王侯。大王不尊號、皆疑不信。臣等以死守之。」漢王三讓、不得已、曰「諸君必以為便、便國家。」甲午、乃即皇帝位氾水之陽。
(『史記』巻八、高祖本紀)
某漫画のネタバレになるから秘密だが秦はすぐに滅ぶことになるのだが、秦を降伏させた漢王劉邦が今度は諸侯たちに推戴される形で「皇帝」を名乗るようになる。
中国の王朝はこのように主に「禅譲」「放伐」によって王朝が交代していったが、漢の高祖の例を見ればわかるように諸侯たちの支持を受けて推戴されるという形式で「天子」となることもあったのである。
また、漢王朝はいったんは権臣王莽が皇帝として支持されたことで滅ぶのだが、王莽の建てた「新王朝」が反乱などで劣勢となると漢の高祖の末裔たちが皇帝を名乗り、漢王朝復興を目指すようになるのである。
その「漢王朝復興レース」を制覇したのが後漢の光武帝であり、三国志の時代の漢の皇帝というのはこの光武帝の子孫なのであった。
後漢末、つまり三国志の時代というのは、「もはや劉氏以外の誰かが新しい天子(皇帝)にならなければいけない」という考えと、「光武帝の時のように漢王朝を復興させなければ」という考えの両方が現れていた時代だったと言える。
そこで重要なのは、王朝交代や復興は別に「禅譲」以外に方法が無いわけではなく、理屈としては「放伐」もあったし、光武帝がそうであったように皇帝の末裔が新たに皇帝となって簒奪者を討つ、ということもあり得たということである。