許攸は一人か二人か

時將軍許攸擁部曲、不附太祖而有慢言。太祖大怒、先欲伐之。群臣多諫「可招懷攸、共討彊敵」太祖膻刀於膝、作色不聽。(杜)襲入欲諫、太祖逆謂之曰「吾計以定、卿勿復言」襲曰「若殿下計是邪、臣方助殿下成之。若殿下計非邪、雖成宜改之。殿下逆臣、令勿言之、何待下之不闡乎?」太祖曰「許攸慢吾、如何可置乎?」襲曰「殿下謂許攸何如人邪?」太祖曰「凡人也」襲曰「夫惟賢知賢、惟聖知聖、凡人安能知非凡人邪?方今豺狼當路而狐狸是先、人將謂殿下避彊攻弱、進不為勇、退不為仁。臣聞千鈞之弩不為鼷鼠發機、萬石之鍾不以莛撞起音、今區區之許攸、何足以勞神武哉?」太祖曰「善」遂厚撫攸、攸即歸服。
(『三国志』杜襲伝)


この『三国志』杜襲伝に見える「将軍許攸」は袁紹から曹操へ裏切った官渡のキーパーソン、南陽の許攸と同一人物なのだろうか。

魏略曰・・・(袁)紹破走、及後得冀州、(許)攸有功焉。攸自恃勳勞、時與太祖相戲、每在席、不自限齊、至呼太祖小字曰「某甲、卿不得我、不得冀州也」太祖笑曰「汝言是也」然内嫌之。其後從行出鄴東門、顧謂左右曰「此家非得我、則不得出入此門也」人有白者、遂見收之。
(『三国志』崔琰伝注引『魏略』)

『魏略』の許攸の事績を見ると、確かに彼は曹操を怒らせている。
ただ、その時期について許攸伝では曹操冀州を平定して以降だということしかわからないが、鄴において起こった事件のようなので、曹操が魏公となり鄴を都にして以降の話だという可能性も否定できない。

杜襲伝の方は曹操を「殿下」という諸侯へ使う二人称で呼んでおり、これは魏公になって以降の話ではないかと思われる。



曹操が魏公になって以降、魏国の都となった鄴で許攸の言動があり、曹操がそれに怒ったということならつじつまは合う。

同一人物だとすると許攸と曹操は挙兵以前からの顔なじみということになり*1、許攸からすれば旧知の仲だという気安さがあったのかもしれない。


また杜襲伝によれば少なくとも一度は許攸は許されたらしいが、崔琰伝および注を見る限りでは最後は処断されたようだ。
小字で呼んだ時点で殺そうとしたのを杜襲らに止められたが、二度目の門の発言の時に結局捕まえたということだろうか。




一番気になるのは、杜襲伝では将軍許攸は部曲を擁していたと書かれており、「謀主」とされている南陽の許攸とちょっと違い半独立の軍閥という雰囲気であることだ。
杜襲が処罰を抑えさせた許攸と、南陽の許攸が別人であっても不思議ではない。
これは婁圭にも共通している特徴だ。

*1:南陽の許攸は曹操合肥侯擁立事件のときに絡んでいる。