予言に合わせて

顯宗即位、(曹)充上言「漢再受命、仍有封禪之事、而禮樂崩闕、不可為後嗣法。五帝不相沿樂、三王不相襲禮、大漢當自制禮以示百世。」帝問「制禮樂云何?」充對曰「河圖括地象曰『有漢世禮樂文雅出。』尚書琁機詹曰『有帝漢出、徳洽作樂、名予。』」帝善之、下詔曰「今且改太樂官曰太予樂、歌詩曲操、以俟君子。」
(『後漢書』列伝第二十五、曹褒伝)

後漢の明帝の時、儒者曹充は「王朝ごとに礼制や音楽は踏襲しないものなので、漢王朝も新たに制定すべきです」と上奏、その中で緯書、つまり「よげんの書」を引いた。



明帝はその「予言」をもとに楽官を「太楽」から「太予楽」へ改称した、という*1





礼楽の中身はともかく、まず官名を予言に合わせよう、という究極の形から入るタイプであるのかもしれない。

*1:ちなみに『宋書』楽志一によると魏の烈祖様が「太楽」に戻した。