前漢のお食事券

初、(匡)衡封僮之樂安郷、郷本田隄封三千一百頃、南以閩佰為界。
初元元年、郡圖誤以閩佰為平陵佰。積十餘歳、衡封臨淮郡、遂封真平陵佰以為界、多四百頃。
至建始元年、郡乃定國界、上計簿、更定圖、言丞相府。衡謂所親吏趙殷曰「主簿陸賜故居奏曹、習事曉知國界、署集曹掾」明年治計時、衡問殷國界事「曹欲奈何?」殷曰「賜以為舉計、令郡實之。恐郡不肯從實、可令家丞上書」衡曰「顧當得不耳、何至上書?」亦不告曹使舉也、聽曹為之。後賜與屬明舉計曰「案故圖、樂安郷南以平陵佰為界、不從故而以閩佰為界、解何?」郡即復以四百頃付樂安國。衡遣從史之僮、收取所還田租穀千餘石入衡家。
司隸校尉駿・少府忠行廷尉事劾奏「衡監臨盜所主守直十金以上。春秋之義、諸侯不得專地、所以壹統尊法制也。衡位三公、輔國政、領計簿、知郡實、正國界、計簿已定而背法制、專地盜土以自益、及賜・明阿承衡意、猥舉郡計、亂減縣界、附下罔上、擅以地附益大臣、皆不道」於是上可其奏、勿治、丞相免為庶人、終於家。
(『漢書』匡衡伝)


前漢元帝の時代の丞相、匡衡が失脚したお食事券汚職事件。


匡衡は丞相になり列侯に封じられると、封邑として臨淮郡の楽安郷を与えられた。

この楽安郷は匡衡の領地になる以前に境界を誤って登録されており、面積が過大になっていた。


そしてあるとき、臨淮郡でそのことに気付いたらしく、年に一度の上計(決算みたいなものと思えばいいだろう)の時に図面を直し、面積を正しく修正した。
つまり、匡衡の領地が目減りしたのである。


匡衡は部下を使い、郡に「楽安国の面積が減るのはおかしい」とねじ込み、郡から代償に他の土地を出させたり、おそらく目減りしていた分と思われる分の年貢を入れさせたりした。


まあこれが怖い怖い監察官である司隷校尉の知るところとなり、弾劾されて匡衡は罷免・失爵となった。



郡、県と丞相符の仕事や関係がいろいろと想像できる面白い話だと思う。
丞相符は郡県の農地の場所や面積を図面で把握していた。
上計は丞相府が統括し、チェックしていた。
やろうと思えば丞相は郡県の統治に「行政指導」で介入することも十分可能であった。