誰が殺した張休・顧承

時論功行賞、以為駐敵之功大、退敵之功小、(張)休・(顧)承並為雜號將軍、(全)緒・端偏裨而已。(全)寄父子益恨、共搆會譚。(顧)譚坐徙交州、幽而發憤、著新言二十篇。其知難篇蓋以自悼傷也。見流二年、年四十二、卒於交阯。
(『三国志』顧譚伝)


三国時代、呉の顧雍の孫に当たる顧譚。彼は弟の顧承および張昭の子の張休が魏との戦い(芍陂の役)での戦功の評定で不正を働いた全氏に告発され、それによって顧承・張休ともども交州に配流された。
大物の二世、三世を一気に配流してしまった孫権の大胆さに驚くと共に、少なくともこの伝においては讒言であり冤罪であるという論調なので一方的かつ不公平な処分だったという印象が強い。


だがよくよく考えてみると、顧承・張休という当事者はともかく、なぜ血縁者というだけのはずの顧譚まで一緒に処分を受けているのか。
血縁者がみんな連坐するなら、張休の兄の張承、顧譚兄弟の叔父陸遜などもこの時点で連坐することになってしまうが、彼らは少なくともこの時点ではこんな処分は受けていない。
顧譚の罪状はこの伝ではぼやかされてるのだ。


呉録曰、全蒴父子屢言芍陂之役為典軍陳恂詐筯張休・顧承之功、而休・承與恂通情。休坐繫獄、權為譚故、沉吟不決、欲令譚謝而釋之。及大會、以問譚、譚不謝、而曰「陛下、讒言其興乎!」
江表傳曰、有司奏譚誣罔大不敬、罪應大辟。權以雍故、不致法、皆徙之。
(『三国志』顧譚伝注)

そこについては注に引用される『呉録』『江表伝』に詳しい。
信憑性を疑う向きもあるだろうが、肝心な『三国志』本伝ですっ飛ばしてる以上、他の伝を見ていくしかないだろう。

それによれば、張休らに戦功不正容疑がかかった際、孫権は顧譚に詫びを入れさせて手打ちにするつもりだったのだという。
しかし顧譚は孫権の目論見に反して陳謝せず、「陛下、讒言が起こっておりますぞ!」と言い放ったという。
つまり自分や弟たちは全くの無実で、全氏の讒言なのだという主張である。
彼らの気持ちはそうなのだろうが、孫権にしてみればメンツを潰されたに等しい。

そして、どうやらこの発言こそが顧譚に「誣罔大不敬」という罪状がかかる原因だったようだ。讒言の告発は真実とみなされなければ誣告であるし、皇帝への誣告は皇帝を騙そうとしたことになるから不敬なのであろう。
そして、その発言のため張休らの手打ちも当然反故になった。


顧譚は皇帝からの救済の手をはねつけ、自らの言動によって自分と弟、そして張休を死へと追いやったことになる。