巴東太守

或傳曹公欲東、(孫)權謂(顧)徽曰「卿孤腹心、今傳孟徳懐異意、莫足使揣之、卿為吾行。」拜輔義都尉、到北與曹公相見。公具問境内消息、徽應對婉順、因説江東大豐、山藪宿惡、皆慕化為善、義出作兵。公笑曰「孤與孫將軍一結婚姻、共輔漢室、義如一家、君何為道此?」徽曰「正以明公與主將義固磐石、休戚共之、必欲知江表消息、是以及耳。」公厚待遣還。權問定云何、徽曰「敵國隱情、卒難探察。然徽潛采聽、方與袁譚交爭、未有他意。」乃拜徽巴東太守、欲大用之、會卒。
(『三国志』巻五十二、顧雍伝注引『呉書』)

顧雍の弟である顧徽は、孫権曹操と同盟状態にあった頃に孫権によって巴東太守に任命された、とされている。




つまり益州側の太守ということになったわけであり、この時期の孫権益州に対し影響力を行使しようとしていた、ということになるのだろうか?



それとも、これは曹操による任命、曹操によるヘッドハンティングということなのだろうか?*1





もちろん、孫権の支配域と益州の間には荊州があるのだから、仮に孫権任命だとしても素直に益州に赴任あるいは侵攻できたとは思えないが。

*1:実際、権限上は当時の孫権に自由な太守任命が出来たとは思いにくい。