改革のゆくえ

(暨)豔字子休、亦呉郡人也、(張)温引致之、以為選曹郎、至尚書。豔性狷窅、好為清議、見時郎署混濁淆雜、多非其人、欲臧否區別、賢愚異貫。彈射百僚、覈選三署、率皆貶高就下、降損數等、其守故者十未能一、其居位貪鄙、志節汚卑者、皆以為軍吏、置營府以處之。而怨憤之聲積、浸潤之譖行矣。競言豔及選曹郎徐彪、專用私情、愛憎不由公理、豔・彪皆坐自殺。
(『三国志』張温伝)

三国時代、呉の暨豔は孫権の元で尚書になったが、そこで彼は官僚の登竜門であった郎官の改革を進めようとしたという。


なんでも、郎官たちが玉石混淆だったのでその峻別を行ったところ、多くの者が降格になり、汚職に手を染めるような人間は軍吏に左遷してしまったそうな。

急進的ではあったのかもしれないが、なかなかに大胆にして重要な政治改革と言えるかもしれない。


だが、これは当然と言えば当然だが人々の恨みを買い、暨豔に対する讒言をもたらし、結局は暨豔は失脚して自殺に追い込まれた。



ある程度の誇張等もあるにせよ、当時の呉において汚職の蔓延、情実等による実力を反映しない人事などが横行し、問題化していたことが伺える。
尚書という孫権の側近中の側近がこの問題解決に着手したということは、この改革は孫権の意向を受けたものと考えていいだろう。

これが簡単に潰されたらしいというあたりに、当時の呉の権力構造を解き明かす鍵が隠されているかもしれない・・・などと上から目線で偉そうなことを言っておこう。