前漢の錬金術師

始(王)吉少時學問、居長安。東家有大棗樹垂吉庭中、吉婦取棗以啖吉。吉後知之、乃去婦。東家聞而欲伐其樹、鄰里共止之、因固請吉令還婦。里中為之語曰「東家有樹、王陽婦去。東家棗完、去婦復還」其窅志如此。
(『漢書』王吉伝)

王吉は妻が隣の家の木からかってに取った棗を自分に食わせたと知ると、妻を離縁した。隣家は騒動の発端となった棗を切ろうとしたので、周囲はそれを止めると共に王吉に妻を呼び戻すようお願いした。
「隣の木のせいで王陽は離婚した。隣は木を切らずに済み、奥さんも戻ってきた」と周囲は語ったという。

吉與貢禹為友、世稱「王陽在位、貢公彈冠」言其取舍同也。元帝初即位、遣使者徴貢禹與吉。吉年老、道病卒、上悼之、復遣使者弔祠云。
(『漢書』王吉伝)

王吉は儒者貢禹と友人で、世間では「王陽が官に就けば貢公も仕官する」と言ったという。

自吉至崇、世名清廉、然材器名稱稍不能及父、而祿位彌隆。皆好車馬衣服、其自奉養極為鮮明、而亡金銀錦繡之物。及遷徙去處、所載不過囊衣、不畜積餘財。去位家居、亦布衣疏食。天下服其廉而怪其奢、故俗傳「王陽能作黄金」
(『漢書』王吉伝)

王吉から子の王駿、孫王崇と、代々清廉と評判であった。才能は父に及ばないと言われたが地位は子の方が上になっていった。みな車馬衣服を好み、自ら鮮やかなものをしつらえたが、金銀錦繍の物は無かった。家に大した財産は無く、官を去ると質素な生活をしていたため、世間では清廉でありながらあのような豪奢な車馬衣服を用意できたことを怪しみ、「王陽は錬金術師に違いない」と噂した。

前漢の琅邪の人王吉、字子陽。かの琅邪王氏の祖とされる人物であるが、当時はもちろんそれとは関係なく、忠直極諫の士にして『論語』学者として知られる儒者である。


何故か彼は世間の噂になりやすいのか、このようにいくつもの逸話の主人公になっている。
あるいは、子孫か弟子がそういう伝説、説話を集めたり創作したりしたのだろうか。