エゴ休屠

雲陽有徑路神祠、祭休屠王也。
(『漢書』巻二十五下、郊祀志下)

雲陽。有休屠金人及徑路神祠三所。
(『漢書』巻二十八上、地理志上、左馮翊)

金日磾字翁叔、本匈奴休屠王太子也。
武帝元狩中、票騎將軍霍去病將兵撃匈奴右地、多斬首、虜獲休屠王祭天金人。其夏、票騎復西過居延、攻祁連山、大克獲。於是單于怨昆邪・休屠居西方多為漢所破、召其王欲誅之。昆邪・休屠恐、謀降漢。休屠王後悔、昆邪王殺之、并將其衆降漢。封昆邪王為列侯。日磾以父不降見殺、與母閼氏・弟倫俱沒入官、輸黄門養馬、時年十四矣。
(『漢書』巻六十八、金日磾伝)


前漢の雲陽県には「休屠王」を祀る祠があったと記録されている。




この「休屠王」とは匈奴単于の召喚を恐れて漢に降伏しようとしたが心変わりし、一緒に降伏しようとしていた昆邪王に殺されてしまった匈奴の休屠王のことなのだろうか。




また雲陽県にあったという金人の祠というのはやはり霍去病の戦利品となった天を祭る金の像のことであろうか。





なぜ匈奴の休屠王関係の祭祀が漢で行われていたのか、ここだけではよくわからないがロマンを感じる話ではあると思う。




真っ先に思いつくのはその休屠王の息子である金日磾かその子孫が関与した(悪く言えば金氏がねじ込んだ)、ということだが、もちろん確証はない。