孫慮の死

後弟(孫)慮卒、(孫)權為之降損、(孫)登晝夜兼行到頼郷自聞、即時召見。見權悲泣、因諫曰「慮寝疾不起此乃命也。方今朔土未一、四海喁喁、天戴陛下、而以下流之念、減損大官殽饌、過於禮制、臣竊憂惶。」權納其言、為之加膳。住十餘日、欲遣西還、深自陳乞、以久離定省、子道有闕、又陳陸遜忠勤、無所顧憂、權遂留焉。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)


孫権(と正妻候補歩氏)と孫登の間では、実は皇后問題で亀裂があったのではないか、といったことをかつて書いたと思う。



それを是とするなら、昨日の「孫権が孫慮を孫登の交代要員として意識していたのではないか」という話は、「孫権が正妻にと考えている歩氏と険悪な孫登を孫慮と交代しようと考え始めていた」ということになるのだろう。





そういった視点で見ると、最初に挙げた孫慮死去時の孫登の言動が、ただ「父と国を思いやっての行動」だけでは済まないものに見えてこないだろうか。




孫登は独断でいきなり皇帝孫権の元を訪れ、「庶子の死という下流の念」で身体を損なうことを諫め、そのまま皇帝孫権の元に残り、皇帝の傍にいることを認めさせているわけだ。



孫慮は孫権が必要以上に嘆き悲しむべきでない庶子なのだと示すとともに、皇帝の傍にいて皇帝や側近が皇太子交代などの不穏な動きをしないか見張れるようになっている。




これは「なかなかの行動力と親を心配する気持ち」などといった評価よりは、「ライバル(弟)の死を奇貨として政治的に有利なポジションをもぎ取った」と言うべきなのかもしれない。




とはいえ、これは父にして皇帝である孫権相手に張り合うような面もあるから、結構危うい行動だったのではないか・・・とも思わないでもない。