太子孫登の逆転

昨日の続き的な話。



孫権が呉王になる時点では嫡子扱いじゃなくなってたように思える孫登が、なぜ復権したのか?あくまで仮説ではあるが、考えてみる。




当時の情勢を考えると、ちょうどその寸前に孫権陸遜を中心として関羽を破り荊州南部をわが物としている。




陸氏というと孫登が母とする徐氏の最初の夫の家であり、呉郡の人間同士ということで陸氏と徐氏はもとより比較的近い関係にあったのではないか、と考えられる。



つまり、そういった地縁や血縁からすれば、対関羽で一気に発言力を増したであろう陸遜は徐氏と繋がる孫登を支持する可能性が高い、ということになる。




断言はできないが、呉王を贈られる直前(関羽を破る前)ではまだ陸遜の発言力が低く、よって孫登は復権できていなかったが、関羽を破り荊州を手にすることで陸遜の地位が一気に向上すると、一緒に孫登の地位も向上し、復権を果たせたのではないだろうか。



その後は、劉備曹丕がいつ攻めてくるか、あるいはこちらから討って出るかという情勢であるから、孫権としては、もはや軍事的に欠かせない存在となった陸遜と真っ向対立する後継者選びが困難になってしまったのではないだろうか。




こうして、分家や魏送りを取りやめ、更には正式に太子に立てるという、孫登の逆転劇が起こったのではないか。



つまり、これは陸遜関羽に対する勝利が生んだ逆転劇ということになる。