献帝の憤り

自帝都許、守位而已、宿衛兵侍、莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彥嘗為帝陳言時策、曹操惡而殺之。其餘内外、多見誅戮。操後以事入見殿中、帝不任其憤、因曰「君若能相輔、則厚。不爾、幸垂恩相捨」操失色、俛仰求出。舊儀、三公領兵朝見、令虎賁執刃挾之。操出、顧左右、汗流浹背、自後不敢復朝請。
(『後漢書』皇后紀下、献帝伏皇后)

曹操献帝擁立について、ここまではっきりと献帝の意に反したものだったと明記する記事は少ないと思う。
もちろん『三国志』ではここで言う「曹氏黨舊姻戚」やその子弟が政界で現役バリバリだったはずなので、批判的な内容が書きづらいだろうから、あまり出てこないのも不思議ではないが。
もちろん、曹操劉備の官爵を自称扱いにする『後漢書』のこと、意図的にそういった史料を採用、または記事を創作した可能性も否定できない。


「君が私を補佐できるというなら、私にもっと手厚くしてくれないか。それができないというなら、もう私のことは捨ておいてくれないか」
これを信じるなら、献帝は決定的なレベルで曹操に対する不信感を募らせている。
暗殺されるのを恐れて朝見しないようにするなど、もはや亀裂どころか決裂しているレベルだろう。