『晋書』武帝紀を読んでみよう:その1

帝紀https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/10/000100)の次は武帝紀にする。


武皇帝諱炎、字安世、文帝長子也。寬惠仁厚、沈深有度量。
魏嘉平中、封北平亭侯、歴給事中・奉車都尉・中壘將軍、加散騎常侍、累遷中護軍・假節。
迎常道郷公於東武陽、遷中撫軍、進封新昌郷侯。
及晉國建、立為世子、拜撫軍大將軍、開府、副貳相國。
初、文帝以景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸為嗣、特加愛異、自謂攝居相位、百年之後、大業宜歸攸。毎曰「此景王之天下也、吾何與焉。」將議立世子、屬意於攸。何曾等固爭曰「中撫軍聰明神武、有超世之才。髮委地、手過膝、此非人臣之相也。」由是遂定。
咸熙二年五月、立為晉王太子
(『晋書』巻三、武帝紀)

晋の武帝司馬炎。字は安世。



彼が就任した「中撫軍」はどうも司馬炎以前に就任者が見つからないように思える。つまり彼のために造られた官だ。


見た感じ「ドサ回り」はしておらず、中央の顕官や枢要な官に就けられているように思われる。まあ司馬師に男子がいなかった以上次の世代の後継者候補筆頭でもあるわけだし、当然か。




身長七尺五寸、垂手下膝、顧自見其耳。
(『三国志』巻三十二、先主伝)

「髪は地面に付くほど長く、手は膝より下に行くほど長く、これは人臣の様相ではありません」なるほど。


司馬炎劉備は「人臣ではない」つまり人の上に立つ人間の特徴を備えているという事らしい。





なお「世子」も「太子」も後継者の意味だが、たぶん「太子」は王以上にのみ許される公式な称号で、公や侯は「世子」が使われたと思われる。