漢中王劉備の任命した太常

以漢中・巴・蜀・廣漢・犍為為國、所署置依漢初諸侯王故典。
(『三国志』先主伝)

馬超劉備の下にいた諸将、諸官は連名で上奏し、劉備を漢中王すべきと説いた。その中で、漢中王の官は「漢初諸侯王」の例を用いるべきことも述べている。
これは曹操が魏公になった時と同じ措置である。

ところが、劉備の漢中王の制度は曹操の魏公の制度とも同一ではなかったようだ。

王元泰名謀、漢嘉人也。有容止操行。劉璋時、為巴郡太守、還為州治中從事。先主定益州、領牧、以為別駕。先主為漢中王、用荊楚宿士零陵頼恭為太常、南陽黄柱為光祿勳、謀為少府。
(『三国志』楊戲伝、季漢輔臣贊)

「漢初諸侯王」の例で言うと、王の大臣は旧名である郎中令や奉常などの名で呼ばれるべきだろう。魏公の大臣は実際にそうである。
だが、どうやら漢中王の大臣は光禄勲、太常といった官名を用いていたように読める。


もしかすると頼恭らが就任したのは漢王朝の大臣だったのかもしれないが、そうだとするとこれまた面白い話になる。
漢の皇帝が豫州許県にいて曹操に抑えられている状態でありながら、劉備は皇帝の大臣を独自に任命しているということになるのだ。
(既に大司馬・漢中王を自分達で決めている状態なので、それ以下の大臣くらい平気になっていた可能性はある)