荊州を攻める

先主屯樊、不知曹公卒至、至宛乃聞之、遂將其衆去。過襄陽、諸葛亮説先主攻蒴、荊州可有。先主曰「吾不忍也」乃駐馬呼蒴、蒴懼不能起。
(『三国志』先主伝)

三国志の時代、荊州を攻めた曹操の前に荊州のトップの座を父から引き継いだ劉蒴は降伏を決めた。
しかし曹操と戦うべく前線に駐屯していた劉備は事実上切り捨てられ、曹操来襲を知った劉備は急ぎ南下し、襄陽まで来た。

ここで諸葛亮は「襄陽を攻め取りましょう」という策を劉備に進言するが、劉備は「それには忍びない」と言って採用しなかった。


劉備が忍びなかったのはむやみに血を流したくないということと、劉表から受けた恩に背き難い、ということだと思うが、劉表から恩顧を受けたという意味では実は諸葛亮も同じである。

諸葛亮孔明、琅邪陽都人也。漢司隸校尉諸葛豐後也。父珪、字君貢、漢末為太山郡丞。亮早孤、從父玄為袁術所署豫章太守、玄將亮及亮弟均之官。會漢朝更選朱皓代玄。玄素與荊州劉表有舊、往依之。
(『三国志諸葛亮伝)

諸葛亮は恩人に対し不義理だったのだろうか。そうかもしれない。


だが、この時の諸葛亮の立場を考えてみよう。
劉備たちは劉表の後を継いだ劉蒴によって敵中に孤立した状態となった。もちろん、劉備関羽張飛といった部下たちも劉蒴を恨んでいることだろう。
諸葛亮はその劉蒴の父劉表の恩顧によって荊州で生活していた人間。と同時に、劉備からは信頼されていたとはいえ関羽張飛らはいまいち信用し切れていなかったのは「水魚の交わり」の話からも伺える。
この状況では、諸葛亮はいつ関・張らから劉蒴のスパイ、裏切り者と断じられて血祭りに上げられるか分かったものではない。


諸葛亮は、劉備軍団内での立場上、劉備に対する忠誠を早急にアピールする必要に迫られていたのだ。
そのために、敢えて劉蒴を攻めろと進言し、自分は劉蒴を味方と思っていないこと、および劉備の利益を第一に考えていることを関・張らに示さなければならなかったのではないだろうか。
(もちろん、単なるアピールだけではなく、自分の劉表との人脈等を利用して襄陽攻めを成功させる成算と覚悟も諸葛亮にはあったのかもしれない)