荊州を守る

文聘字仲業、南陽宛人也、為劉表大將、使禦北方。
表死、其子蒴立。太祖征荊州、蒴舉州降、呼聘欲與倶、聘曰「聘不能全州、當待罪而已」
太祖濟漢、聘乃詣太祖、太祖問曰「來何遲邪?」聘曰「先日不能輔弼劉荊州以奉國家、荊州雖沒、常願據守漢川、保全土境、生不負於孤弱、死無愧於地下、而計不得已、以至於此。實懷悲慚、無顏早見耳」遂欷歔流涕。太祖為之愴然曰「仲業、卿真忠臣也」厚禮待之。
授聘兵、使與曹純追討劉備於長阪。
(『三国志』文聘伝)

三国志の時代、劉表の将であった文聘は主の降伏により曹操に降伏することとなった。
曹操は彼に兵を授け、逃げる劉備を追討した。

蒴左右及荊州人多歸先主。比到當陽、衆十餘萬、輜重數千兩、日行十餘里、別遣關羽乘船數百艘、使會江陵。或謂先主曰「宜速行保江陵、今雖擁大衆、被甲者少、若曹公兵至、何以拒之?」先主曰「夫濟大事必以人為本、今人歸吾、吾何忍棄去!」
曹公以江陵有軍實、恐先主據之、乃釋輜重、輕軍到襄陽。聞先主已過、曹公將精騎五千急追之、一日一夜行三百餘里、及於當陽之長坂。先主棄妻子、與諸葛亮張飛趙雲等數十騎走、曹公大獲其人衆輜重。
(『三国志』先主伝)

このときの劉備といえば荊州の吏民を多数引き連れていたというのは『三国志演義』などでも有名な話である。
曹操の送った追討の騎兵はこの集団を攻撃して多数の捕虜を取るなどの戦果を挙げたが、劉備は遂に逃げおおせた。


荊州を守る事」を願ってきたという文聘が曹操から最初に与えられた仕事は、荊州の人間を攻撃することだった。