劉備の反乱

魏書曰、自劉備叛後、東南多變。太祖以陳群為酇令、(何)夔為城父令、諸縣皆用名士以鎮撫之、其後吏民稍定。
(『三国志』何夔伝注引『魏書』)

後漢末、曹操の元にいた何夔。
いつでも死ねるようにと毒薬を携行していたという人物だが、今回はそこは問題ではない。


上記の『魏書』によれば、劉備の反乱後は東南方面に反乱が多く、ために何夔や陳群らの名士を県令に用いたという。

劉備豫州牧、この二人は共に豫州の人、彼らが県令になった県もいずれも豫州の県。
つまりここは豫州でのことを指している。


劉備曹操に背いて以降、豫州では曹操に反する者が多かった。
そこで地元で顔が広い何夔や陳群らの名士を起用して動揺を抑えた、ということである。

劉備の反乱はすぐに攻撃されているためになんとなく大したことがないように思えてしまうが、このころの曹操にとって案外影響が大きかったのではなかろうか。