曹操暗殺計画

(王)朗家傳曰、朗少與沛國名士劉陽交友。陽為莒令、年三十而卒、故後世鮮聞。初、陽以漢室漸衰、知太祖有雄才、恐為漢累、意欲除之而事不會。及太祖貴、求其嗣子甚急。其子惶窘、走伏無所。陽親舊雖多、莫敢藏者。朗乃納受積年、及從會稽還、又數開解。太祖久乃赦之、陽門戸由是得全。
(『三国志』巻十三、王朗伝注引『王朗家伝』)


三国魏の王朗は、若い頃に劉陽という名士と親交があった。

この劉陽と言う人物は曹操と同郷だが、その曹操が漢に仇なす存在になると思い、曹操を亡き者にしようと考えた。しかしそれは上手く行かず、劉陽は若くして死亡した。


その後、劉陽の子供は権力者となった曹操に追われることとなったが、曹操を恐れ味方する者が無い中で王朗は独り劉陽の子を匿い、その後は曹操に対し助命嘆願して恩赦を勝ち取ったという。


王朗の家伝、つまり子孫が先祖である王朗の称揚のために著した書に記されたエピソードと思われるので信憑性は怪しいものだが、劉勲のように曹操と親しい者もいた沛国劉氏に曹操を殺そうとした者もいたというのは面白い。


劉陽の暗殺計画を、夏侯淵が身代わりになった逮捕事件や豫州刺史による曹操襲撃と結び付けたくなる。