さかのぼり前漢情勢36

またずいぶん間隔が開きましたhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100418/1271565950の続き。


漢の文帝が傀儡同然の存在からスタートしたことは述べたが、では何故彼が選ばれたのか。

話は呂后時代にまでさかのぼる。

呂后が死去する呂后八年の段階で、呂后は劉氏以外の諸侯王を数人立てていた。

  • 魯王張偃(張敖の子。高祖と呂后の外孫)
  • 梁王呂産(呂后の一族)
  • 趙王呂禄(呂后の一族)
  • 燕王呂通(呂后の一族)

また、以下の数人は恵帝の子(即ち高祖の孫)とされていたが、実際には呂氏の子を劉氏と偽ったとも言われている。

  • 淮陽王劉武
  • 恒山王劉朝
  • 呂王劉大

劉氏の子についての真偽はさておくとして、この七人については事実上呂氏の一党であり、呂后の勢力は全土に広がっていたと言っていい。

さらに、劉氏の諸侯王たちも呂氏に取り込まれつつあった。
当時の諸侯王は以下のとおり。

  • 長沙王呉若
  • 楚王劉交(高祖の弟)
  • 呉王劉濞(高祖の甥)
  • 斉王劉襄(高祖の孫)
  • 代王劉恒(高祖の子)
  • 淮南王劉長(高祖の子)
  • 瑯邪王劉沢(高祖の親戚。呂后の姻戚)

見てのとおり瑯邪王劉沢は呂后とは姻戚関係にあり、そのお陰で王にしてもらったようなものである。
淮南王劉長は年少で、呂后を母として育てられた。実母を呂后が助けなかったという恨みもあったが、簡単に逆らえるような関係ではない。
呉王劉濞は遠方であり、お互い積極的には絡んでこない。


そうなると残りは代王劉恒、楚王劉交、斉王劉襄である。
楚王劉交、斉王劉襄については、呂后側は統制と取り込みを図っていた。

高后時、以元王(劉交)子郢客為宗正、封上邳侯。
(『漢書』楚元王伝)

呂后は、楚王劉交の子を都に上げて官位と封爵を与えた。人質にすると共に恩を着せてやったのである。

哀王(劉襄)三年、其弟章入宿衛於漢、呂太后封為朱虛侯、以呂祿女妻之。後四年、封章弟興居為東牟侯、皆宿衛長安中。
(『史記』斉悼恵王世家)

斉王の弟たちも同じように招き寄せて爵位を与えている。
その上、呂氏と結婚させることで呂氏勢力への取り込みも図っている。
結果としてこれが呂氏の命取りだったが、策略としては悪くなかったと言えると思う。

おそらく代王つまり後の文帝にも、何らかの形で呂氏の取り込み策が入っていた可能性が高いと思うが、そういうあたりは分からない。
文帝の代王時代の后が怪しいが、これも推測の域を出ない。
間違いないのは、代王は呂氏勢力からは味方、あるいは安牌扱いされていたであろうということだ。

呂氏が対応に腐心していたのは斉王であった。
斉王は領地の一部を呂后に献上して毒殺の窮地を逃れたり、先に述べたように弟を人質に出したりしている上、魯、梁、瑯邪と周囲を呂氏系統の王に囲まれている。
仮に斉が反乱するとしても、領地を減らされている上に、周囲の諸侯王がまず敵に回るのである。

その上、斉王国の丞相もまた呂氏の手の者であった。

齊王既聞此計、乃與其舅父駟鈞・郎中令祝午・中尉魏勃陰謀發兵。齊相召平聞之、乃發卒衛王宮。
(『史記』斉悼恵王世家)

斉の丞相召平は斉王の挙兵を実力行使で止めようとした。つまりはそういう関係なのである。


呂后は諸侯王に対し血縁、姻戚、あるいは監視や包囲といった形で囲い込みを行い、支配していた。
呂后の死によってそれに狂いが生じて斉王が蜂起し、呂氏が敗北することとなったわけだが、記録されている限りでは代王はそこに全くと言っていいほど関わっていない。
つまり、呂氏による囲い込みに大人しく従っていたのである。

そのお陰で死なずに済んでいたのだが、この従順さが新皇帝擁立を図る陳平らに目を付けられたのではないかと思う。
陳平らは文帝が完全に猫を被っていただけだったとすぐに思い知らされることになるのだが。