さかのぼり前漢情勢28

この時期はこの世から杉清修以外の杉が無くなればいいのにと思うhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100315/1268582138の続き。


漢の武帝元号、「元狩」の前は「元朔」。

この時期は衛青の登場により匈奴との戦いが本格化している。

元朔二年には匈奴から黄河上流域を奪って朔方郡、五原郡を置いており、漢の反攻がいよいよ始まったと言う感じだろう。

一方、漢の朝廷において時代の変化を物語る人事が行われている。

元朔中、代薛澤為丞相。
先是、漢常以列侯為丞相、唯弘無爵、上於是下詔曰「朕嘉先聖之道、開廣門路、宣招四方之士、蓋古者任賢而序位、量能以授官、勞大者厥祿厚、紱盛者獲爵尊、故武功以顯重、而文紱以行褒。其以高成之平津鄉戶六百五十封丞相弘為平津侯。」
其後以為故事、至丞相封、自弘始也。
(『漢書』公孫弘伝)

これまで、漢において丞相は列侯が就任していた。
官僚として、あるいは徳の高い人物として評価されていても、列侯になっていなければ丞相にはなれなかった、初めから候補にならなかったということである。

ここで列侯ではない者が丞相になり、更に列侯の地位を与えられたということは、平民にも丞相になるチャンスが生まれたということであり、同時に列侯になるチャンスが生まれたということである。
列侯は皇族や外戚か、もしくは将軍となって功を立てるか、謀反の告発や反乱平定などの特別な功績があるか、いずれも通常得られるものではない。
官僚となって真面目に勤めて頭角を現して丞相に至ることこそ、平民にとっては列侯になりうる可能性の一番高い道なのである。

それまでの良くも悪くも貴族的だった支配階級が、官僚制度という流動的なものの上に乗っかるようになる契機だったのではないだろうか。


もう一つ、漢の全国支配という点で重要なことがあった。

春正月、詔曰「梁王・城陽王親慈同生、願以邑分弟、其許之。諸侯王請與子弟邑者、朕將親覽、使有列位焉」
於是藩國始分、而子弟畢侯矣。
(『漢書武帝紀、元朔二年)

いわゆる「推恩の令」である。
それまでも漢王朝は各地の諸侯王の領地を分割したり、一部を漢直轄地に編入したりと諸侯王を弱める政策を続けていたが、それでもなお諸侯王は郡と同格かそれ以上の王国を支配していた。

その一方で、諸侯王の子弟は特に領土も持たず、さりとて官僚になっても皇族であるがゆえの制限をかけられていた。
いくら不逮捕特権などがあるとはいえ、皇族の待遇は必ずしも良いものでもなかった。

それを一挙に解決するのが「推恩の令」である。
諸侯王は子弟のために自分の領土を分割して与えることを許された。
それまで罰として行っていた諸侯王の領地没収を、自発的にやらせることができるのである。
諸侯王にとっても、余り者状態だった子弟に独立と自活の手段を与えることができるし、子弟にとってはもちろん福音である。
漢の歴代君主が苦心してきた中央集権化を恨まれずに進められるという天才的な勅令であった。
考案した主父偃はもっと評価されてもいいのではないかと思う。

これによって諸侯王の弱体化にトドメが刺され、漢の中央集権化が決定的となったと言えよう。


この二つの政策は、当時の漢王朝が名実ともに統一政権となっていたことを物語っていると言えるのではないだろうか。