不臣の礼

初、匈奴呼韓邪單于來朝、詔公卿議其儀、丞相霸・御史大夫定國議曰「聖王之制、施紱行禮、先京師而後諸夏、先諸夏而後夷狄。詩云『率禮不越、遂視既發。相土烈烈、海外有截。』陛下聖紱充塞天地、光被四表、匈奴單于郷風慕化、奉珍朝賀、自古未之有也。其禮儀宜如諸侯王、位次在下。」
(蕭)望之以為「單于非正朔所加、故稱敵國、宜待以不臣之禮、位在諸侯王上。外夷稽首稱藩、中國讓而不臣、此則羈縻之誼、謙亨之福也。書曰『戎狄荒服』、言其來服、荒忽亡常。如使匈奴後嗣卒有鳥竄鼠伏、闕於朝享、不為畔臣。信讓行乎蠻貉、福祚流于亡窮、萬世之長策也。」
天子采之、下詔曰「蓋聞五帝三王教化所不施、不及以政。今匈奴單于稱北藩、朝正朔、朕之不逮、徳不能弘覆。其以客禮待之、令單于位在諸侯王上、贊謁稱臣而不名。」
(『漢書』巻七十八、蕭望之伝)


前漢宣帝の時、匈奴は後継争いにより国が分裂し、勝ち残った単于も国力が低下し漢への臣従を余儀なくされた。
単于は漢の都に迎えられ、百官公卿王侯が集う場に出席することとなった。


そこで問題となったのが席順や待遇であった。
当時の丞相らは匈奴単于の席次は諸侯王の下にすべきと主張した。


しかし儒者蕭望之はそれに反対してこう主張した。

匈奴は漢の暦を使わない(即ち漢に組み込まれていない)のであるから、臣下ではなく客として扱うべきである。客扱いだからこそ仮に匈奴が漢から離反しても漢としては痛くもかゆくもない。」


つまり、諸侯王の下とすることで漢の序列内に組み込んでしまうと、万一匈奴が漢から離反した時には反乱者として討伐しなければいけない。放置するという選択肢はありえず、討ち滅ぼすか降伏させるかしかなくなってしまう。

序列の外に置いて客分として扱えば、仮に漢から離反したとしても同盟関係が失われただけに過ぎない。状況次第では放置などということも可能ということになる。


宣帝はその蕭望之の進言に従った。
彼の考えは漢王朝にとって序列内と序列外の関係を考える上での基礎となったことになる。