板楯蛮の反乱

靈帝光和二年、巴郡板楯復叛、寇掠三蜀及漢中諸郡。靈帝遣御史中丞蕭瑗督益州兵討之、連年不能剋。
帝欲大發兵、乃問益州計吏、考以征討方略。漢中上計程包對曰「板楯七姓、射殺白虎立功、先世復為義人。其人勇猛、善於兵戰。昔永初中、羌入漢川、郡縣破壊、得板楯救之、羌死敗殆盡、故號為神兵。羌人畏忌、傳語種輩、勿復南行。至建和二年、羌復大入、實頼板楯連摧破之。前車騎將軍馮緄南征武陵、雖受丹陽精兵之鋭、亦倚板楯以成其功。益州郡亂、太守李顒亦以板楯討而平之。忠功如此、本無惡心。長吏郷亭更賦至重、僕役箠楚、過於奴虜、亦有嫁妻賣子、或乃至自剄割。雖陳冤州郡、而牧守不為通理。闕庭悠遠、不能自聞。含怨呼天、叩心窮谷。愁苦賦役、困罹酷刑。故邑落相聚、以致叛戻。非有謀主僭號、以圖不軌。今但選明能牧守、自然安集、不煩征伐也。」帝從其言、遣太守曹謙宣詔赦之、即皆降服。
(『後漢書』列伝第七十六、南蛮伝、板楯蛮夷)

昨日の記事の再掲であるが、後半部分が興味深いので挙げておく。





反乱が起こると板楯蛮が兵士として使役され、軍事があるため賦役や税が重くのしかかって奴隷以下の扱いを受け、困窮のあまり妻や子を売りに出したり、自殺に追い込まれることさえあった。



州や郡に苦境を訴えても長官は取り合ってくれず、中央に訴えようにも遠くてできない。この怨みの声は天にこだまする。



そんな集落が寄り集まって反乱を起こすのである。




ゆえに聡明な州郡の長官を選べば自然に乱は治まる。







この「悪いことは大体太守や刺史のせい」という発想は涼州におけるそれと極めて似通っているように思う。



つまり、後漢末の辺境は西でも南でも大体が「クソ太守や刺史のせいで酷い目に遭っている」と認識していたということなのだろう。



『潜夫論』では更に一歩進んで「そんな太守や刺史を送り込んでくる宦官が元凶」となっていたようだが。




なんにせよ、有能かつ従順だった板楯蛮の忠誠度をゴリゴリ削りながら使い潰して反乱を招いていくスタイルがとても世紀末である。