さかのぼり前漢情勢5

静かにhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100206/1265429215の続き。


では三公制度導入を主導したと思われる丞相翟方進とは何者か。

方進知能有餘、兼通文法吏事、以儒雅緣飭法律、號為通明相、天子甚器重之、奏事亡不當意、內求人主微指以固其位。・・・(中略)・・・方進雖受穀梁、然好左氏傳・天文星曆、其左氏則國師劉歆、星曆則長安令田終術師也。厚李尋、以為議曹。
(『漢書』翟方進伝)

彼は儒者でありながら法律や事務にも通じ、成帝の信頼を得ていた。儒者であると同時に酷吏なのである。
しかも儒者としても只者ではなく、あの劉歆に左伝を教えたという。またあの「陳聖劉太平皇帝」を哀帝に勧めた連中の一人である李尋もまた彼の門下であった。
後の時代への影響力という点で見てもとんでもない人物である。

そして彼は他の儒者出身の官僚を高位に引き上げたり、外戚の中でも傍流に位置していた淳于長と手を組んだりと、権謀術数にも長けていた。


そんな彼が丞相在任中に積極的に行ったことが二つある。


一つは外戚王氏を徹底的に叩くこと。

為相公虜、請託不行郡國。持法刻深、舉奏牧守九卿、峻文深詆、中傷者尤多。如陳咸・朱博・蕭育・逢信・孫閎之屬、皆京師世家、以材能少歷牧守列卿、知名當世、而方進特立後起、十餘年間至宰相、據法以彈咸等、皆罷退之。
(『漢書』翟方進伝)

彼が弾劾罷免したという者の多くは、外戚王氏と繋がりのある者であった。例えば陳咸は外戚王立に推挙されたが、翟方進はそのことを以って「選挙不実」とみなし両者を弾劾した。
政治的なライバルを追い落とし、強いリーダーシップを発揮しようとしたところは哀帝と通じるものがある。


そしてもう一つが改革路線である。
彼は改革論者の盟友何武と共に、三公制度、州牧制度を施行し、また諸侯王の内史を廃止した。

更に、こんな記録も見える。

上遂賜冊曰、・・・間者郡國穀雖頗孰、百姓不足者尚衆、前去城郭、未能盡還、夙夜未嘗忘焉。朕惟往時之用、與今一也、百僚用度各有數。君不量多少、一聴群下言、用度不足、奏請一切筯賦、稅城郭堧及園田、過更、算馬牛羊、筯益鹽鐵、變更無常。朕既不明、隨奏許可、後議者以為不便、制詔下君、君云賣酒醪。後請止、未盡月復奏議令賣酒醪。・・・
(『漢書』翟方進伝)

成帝の冊書によれば、翟方進は財政難から賦役の負担増や増税を進めたのだという。ここで成帝は翟方進の増税を非難しており、翟方進はこれを受けて自殺するのだが、翟方進の立場から言えば、増税するしかないような財政状況だったから制度を改めたのだ、ということだろう。


成帝時代の後半期、現制度の行き詰まりを肌で感じる者が多かったのだろう。
翟方進はその閉塞感の打破を真剣に試みた人物であった。

それが儒者であったのは偶然ではない、と思う。
当時の儒者は基本的に改革論者である。それはいつか語ることになるだろう。飽きなければ。