漢代で最大の謎

突然だが、漢代で最大の謎とは一体なんであろうか。

少帝(恵帝の子)の名前だろうか。
昭帝の実父であろうか。
魯侯奚涓だろうか。

まあ色々と謎はあるのだけれど、個人的にはこれを推す。

主爵中尉、秦官、掌列侯。景帝中六年更名都尉、武帝太初元年更名右扶風、治内史右地。
(『漢書』百官公卿表上)

主爵中尉、後に主爵都尉。


この官は「列侯を掌る」という。しかし、武帝の時代になって右扶風と改名され、内史の右側すなわち首都圏の西側を統治するようになった。

この百官表の説明で納得できるだろうか?私はできない。


「列侯を掌る」は列侯をどう掌ったのだろうか?
なんで中尉、都尉と武官の名称を冠していたのだろうか?
なんでその官が直接関係無さそうな首都圏の統治を担当するようになったのか?
右扶風になってからも列侯を掌っていたのだろうか?

右扶風になって以降は「三輔」という通称が示すように首都圏長官三人が同列という感じで、列侯を掌るという特殊な職掌があったようには思えない。

そもそもそれ以前、列侯を掌るという職掌を思わせるような何らかの活動が記録されていただろうか?ちょっと覚えがない。


なんなんだろうか、この官は?