作られる歴史

先日の京兆(扶風)韋氏について補足のようなもの。




本始元年春正月、募郡國吏民訾百萬以上徙平陵。
(『漢書』巻八、宣帝紀、本始元年)


当時、皇帝陵の側に多くの者を住まわせるという政策が取られており、武帝の茂陵なども何度か各地の富豪を移住させたりしていた。



同様に、昭帝陵である平陵にも全国の富豪を移住させるという命令が出されている。




九卿という高級官僚の韋賢(魯国の人)もおそらくこの命令か、それ以前の同種の命令に該当したのだろう。



こうして、韋賢を主とする韋氏は右扶風平陵県の出身となった。




元康元年春、以杜東原上為初陵、更名杜縣為杜陵。徙丞相・將軍・列侯・吏二千石、訾百萬者杜陵。
(『漢書』巻八、宣帝紀、元康元年)

続いて、宣帝は自分が健在の頃から自分の皇帝陵を用意し*1、その陵(杜陵)に政府高官や列侯、富豪を移住させた。



その頃韋玄成は既に二千石クラス(太守や都尉)であったのだろうから、そこで杜陵に移住することになった。




兄の韋弘も高官であったはずだが韋玄成だけ移住したのは、おそらくだが当時後継者扱いの韋弘は父と共に平陵にある家や墓を守るべき存在と考えられ、分家筋だけが移住対象になったということなのではないかと思う。



ここで、父韋賢(と子の韋弘ら)は右扶風平陵、韋玄成だけは京兆尹杜陵と家は二つに分かれたことになる。




神爵元年、共侯玄成嗣、九年、有罪、削一級為關内侯、永光二年二月丁酉復以丞相侯、六年薨。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表、扶陽節侯韋賢)


だが、すったもんだの挙句に分家筋だったはずの韋玄成の方が父の爵位を継ぎ、その後本人が丞相となるに及び、韋玄成から始まる京兆尹杜陵の韋氏の方が栄えて本来の宗家筋であったはずの右扶風平陵の韋氏の方が劣勢となっていき、最終的には「韋賢の時に魯から京兆尹杜陵に移住した」と右扶風平陵時代を無きものとするに至ったのであろう。






漢書』注釈の大家である唐の顔師古先生は、唐代の各名族間に伝えられていたであろう系譜の類をほとんど敵視といっていいくらいdisっているのだが、それはこの件のように家の思惑や力関係、あるいは単なる虚栄心から誤ったことが伝えられていることがわかってしまうからだったんだろうと思う。



各家の系譜は『漢書』と付きあわせると食い違うところがかなり多かったんだろう。

*1:一応言っておくと当時の皇帝には珍しい事ではない。